邪馬台国

2~3世紀に日本列島に存在したとされる国 From Wikipedia, the free encyclopedia

邪馬台国(やまたいこく/やまとこく、旧字体: 󠄂馬臺國)は、『三国志魏志倭人伝に伝わる3世紀ごろの倭国内の国の一つ。倭の女王卑弥呼が都としていたことで知られている。

概要 邪馬台国, 官 ...
邪馬台国
伊支馬
彌馬升
彌馬獲支
奴佳鞮
現在 日本の旗 日本
次代
 
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古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]江戸時代新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。所在地について論争があったが、21世紀現在では考古学の成果などを踏まえて畿内説が有力視されている[1][2][3]

概要

中国の『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)では、卑弥呼は約30の国からなる倭国の女王で邪馬台国に都をおいていたとされている。

なお、現存する三国志の版本では「󠄂」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。本項でも「邪馬台国」と表記する。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱(倭国大乱)が起きた。そこで卑弥呼という女性を王に共立することによって混乱が収まり、倭国連合が成立した。彼女は都を邪馬台国におき、弟の補佐を受けながら国を治めていた。卑弥呼は狗奴国と対立しており、戦いがあった247年正始8年)ごろに死去する。

邪馬台国の官としては、伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮がいた。戸数は七万余戸あったとされる。

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係や、邪馬台国の位置については諸説ある。

『魏志倭人伝』中の邪馬台国

魏志倭人伝の原文の抜粋。

以下は『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国の概要である。

道程と官名

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島に当時あった帯方郡から[4]邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

邪馬台国までの各国については位置と道程について『魏志倭人伝』に詳しい記述があり、邪馬台国は投馬国から「水行十日、陸行一月」と記載される。その他21の国々が記載されるほか、邪馬台国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があるが、狗奴国は邪馬台国と不和であった。

邪馬台国に置かれた官名として伊支馬弥馬升弥馬獲支奴佳鞮が挙げられ、人口は7万戸余りとされる。

倭地、女王国の地理

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

女王国(邪馬台国)から東に1000里ほど海を渡ればまた倭種の国があるとされる。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があると説明されている。それとは別にまた船行1年で行ける所として裸国黒歯国があった。

倭地について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、巡り回ると5000里ばかり」とある。

政治・経済

倭国の女王である卑弥呼は邪馬台国に都を置いた。

名称・表記

現存する『三国志』(魏志倭人伝)の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』現存刊本は、成本時期が10世紀で現存の『三国志』刊本時期より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。

『三国志』より後の5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝現存刊本では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』現存刊本では国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝現存刊本では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。

新字体では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。

表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料の現存刊本に「壹」は見られないため、一般的には誤写によるものとされる[5]

発音

「邪馬台」の後漢中国語(当時の発音) /*ja-ma-də/[6]

現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みは、江戸時代新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づいて音読したものであるため、魏志倭人伝の書かれた当時の発音を正しく表すものではない。上述の通り、当時の発音は"*jamadə"であったと推測され、これは仮名文字で表記すると「やまど」となる。しかし、当時の日本語では清音と濁音の区別がなくどちらも同じ音と認識していたため、当時の正しい発音は「やまと」となる[7]

所在地論争

邪馬台国の所在地に関する議論は『日本書紀』編纂の頃から繰り広げられ、主に畿内説と九州説が争ってきた。21世紀現在では考古学的成果などを踏まえ畿内大和に比定する説が有力視される[1][2][3]

脚注

参考文献

関連項目

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