邪馬台国論争
邪馬台国が畿内にあったとする学説
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概要
研究史
文献解釈の時代(1920年代以前)
邪馬台国論争の始まりは720年に成立した『日本書紀』の編纂時にさかのぼるという説がある[5]。『日本書紀』では神功皇后の記事に『魏志倭人伝』を引用し、邪馬台国を畿内大和に、卑弥呼を神功皇后に比定している[5]。
江戸時代には、『日本書紀』の解釈を継承した畿内説に松下見林、新井白石(『古史通或問』)らがおり、また九州説には畿内説から立場を変えた新井(『外国之事調書』、筑後国山門郡説)、本居宣長らがいた[6]。本居の場合、国学者の立場から日本の皇后が中国に朝貢することは認められず、九州にいた熊襲などが神功皇后を偽称して私的に派遣したものと考えている[6]。
19世紀には鶴峯戊申や近藤芳樹、菅政友、吉田東伍らによって邪馬台国熊襲説が展開された[7]。一方、星野恒は『日本書紀』に記載のある山門県の土蜘蛛「田油津媛」を卑弥呼の先代の女酋とみて、邪馬台国を筑後国山門郡に比定した[8]。また那珂通世は『日本書紀』の記念を研究して、神功皇后と卑弥呼の時代に100年ほどのずれがあることを指摘し、卑弥呼=神功皇后説が力を失う[9]。しかし、この段階では『魏志倭人伝』の里程をそのまま採用すると邪馬台国が九州南方の海上に存在することになってしまうという問題を解決できないでいた[10]。
20世紀に入ると、久米邦武は1901年から1902年にかけて東京専門学校の校外生向けに日本史・日本古代史の講義録を作成し、この中で邪馬台国の問題に多くの分量を割いていた[11]。久米は星野の筑後山門説を支持し[10]、邪馬台国が海上になってしまう問題に対し奴国を起点に不弥国、投馬国、邪馬台国それぞれに向かう行程を想定した[12]。また、久米は筑紫君、筑紫国造の遺跡分布から邪馬台国の領域を山門郡を中心として周辺の上妻郡、下妻郡を含む地域であると考え、卑弥呼は『日本書紀』の八女津媛に比定した[13]。そして久米や喜田貞吉らは筑後の高良山や女山に所在する神籠石系山城を邪馬台国に関する遺跡とみなすのであるが[14]、これに対し原田大六が批判するとおり7世紀の遺跡から3世紀の歴史を説明することは認められない[15]。
1910年には畿内説の内藤湖南と九州説の白鳥庫吉によって相次いで画期的な研究が発表され、所在地論争が本格的に開始した[16]。内藤は論文「卑弥呼考」で諸本の比較検討による『魏志倭人伝』の原典批判を初めておこない、『魏志倭人伝』に記載される斯馬国以下の国々を近畿周辺の地名に比定し、邪馬台国を大和国に当てた[17]。そして卑弥呼を垂仁天皇皇女の倭姫命に比定し、かつての神功皇后説とは異なる視点を提供した[17]。内藤の発表の翌月・翌々月にかけて、白鳥が論文「倭女王卑弥呼考」を発表し[18]、従来の邪馬台国熊襲説を批判して九州南部の熊襲を狗奴国に当て、邪馬台国は九州北部に考えた[19]。白鳥は『魏志倭人伝』の里数、日数を詳細に検討し、帯方郡から邪馬台国が「一万二千余里」と記載されるのに対して帯方郡から不弥国の里数の合計が一万七百余里となることから不弥国-投馬国-邪馬台国の里数はわずか一千三百余里となると指摘し[20]、また里数が古今の尺度に合わないことから1里=約434メートルの当時の里制とは異なる「短里」が用いられていた可能性を考え[21]、結論として邪馬台国を肥後国に比定した[22]。
内藤と白鳥の発表からさらに数ヶ月後には、九州出身の橋本増吉が「郷土愛」的関心から[23]九州説(筑後山門説)を支持し内藤を猛批判する[24]。藤井甚太郎も邪馬台国を九州(肥後)に当てる議論を展開したが、藤井も九州出身ゆえの郷土愛にもとづく主張だったとみられる[25]。他方、古谷清は肥後の江田船山古墳を卑弥呼に関係する古墳とみなし、邪馬台国研究に古墳を採用する先駆となった[26]。
畿内説からは日本海ルートを想定し、投馬国を出雲国あるいは但馬国に当てる山田孝雄や[27]、内藤と同様に瀬戸内海ルートを考えつつ投馬国を内藤の周防国佐波ではなく備後国鞆の浦に当てる志田不動麿などが登場した[28]。
考古学の参入(1920年代以降)
1922年以降、『考古学雑誌』上に相次いで邪馬台国関連の研究が掲載されるようになる[29]。1922年1月から1924年4月にかけて掲載された11編の論文のうち、九州説は坪井久馬三と白鳥庫吉の2編、畿内説は高橋健自、笠井新也(3編)、中山平次郎、山田孝雄、三宅米吉、豊田伊三美、梅原末治の9編であったことから、内藤の「卑弥呼考」以後に畿内説が優勢となっている状況が読み取れる[30]。
富岡謙蔵は1916年の講演「日本出土の支那古鏡」にて、古鏡を12種に分類し、四神四獣鏡が銘文から曹魏以降のものであると指摘し[31]、また富岡の研究をもとに梅原末治は先述の江田船山古墳の鏡が六朝時代のものであるから邪馬台国の時代に当たらないと指摘している[32]。富岡は1918年に夭逝するものの、交友のあった内藤の指示により梅原がその遺稿を整理し遺著『古鏡の研究』を出版することになる[33]。ここに収められた文章では古墳出土鏡と『魏志倭人伝』の「銅鏡百枚」とが関連づけられ、邪馬台国を畿内(大和)に比定している[34]。梅原は富岡の遺稿を整理し始めた1919年から3年がかりで佐味田宝塚古墳、新山古墳を調査し、古墳と古鏡の分布から改めて邪馬台国畿内説(大和)に比定した[35]。
『考古学雑誌』に続けて3編の論考を発表した笠井新也は、まず邪馬台国の位置を考える基準として「地名の一致」、「遺跡の一致」、「行路・行程の一致」の3点を挙げ、大和国という地名、奈良盆地に所在する古墳その他の遺跡、日本海ルートを採用して投馬国を出雲国に比定することで行程も一致するとした[36]。第2論文では邪馬台国時代の九州は古墳文化の分布、『魏志倭人伝』の「卑奴母離」の官名から大和の支配下にあったと説いた[37]。そして第3論文では卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命に比定し、さらに18年後の第4論文で『魏志倭人伝』に卑弥呼の死にあたって大規模な墳墓築造の記事がみられることから、『日本書紀』にみえる倭迹迹日百襲姫命の大規模な墳墓築造記事と比較しながら箸墓古墳を卑弥呼の墓に当てた[38]。
小林行雄は1947年の著書『日本古代文化の諸問題』、1955年の論文「古墳の発生の歴史的意義」において富岡・梅原の議論を継承しながら同笵鏡論・伝世鏡論を展開し、前方後円墳の発生を考察し、邪馬台国畿内説を支持した[39]。また1956年の論文「前期古墳の副葬品にあらわれた文化の二相」で「仿製鏡」の問題を取り上げ、副葬される鏡群に邪馬台国的な古相のものと大和政権的な新相のものがあるとして、王が「共立」された邪馬台国から男系世襲の大和政権への歴史的発展を示した[40]。その後の三角縁神獣鏡に関する議論は「同笵鏡論・伝世鏡論」を参照のこと。
社会構造の探究(1930年代-1960年代)
内藤の邪馬台国論に大きく影響を受けた末松保和は、1929年の論文「太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文に就て」で『太平御覧』に引用される『魏志』が「要約」や「節略」がありながらもより本来の形に近いと思われ、ここで投馬国が「於投馬国」と表記されていることから出雲国に音韻を当て、畿内説日本海ルートを支持した[41]。また翌年、末松は捕虜・奴隷とみなされる「生口」について被支配階級、財産所有形態、生産技術の問題として捉えることを提起し、当時の社会構造を復元することの重要性を指摘している[42]。この背景にはマルクス主義歴史学の興隆があった[43]。ほかに戦前のマルクス主義歴史学の研究者としては、伊豆公夫が1936年の論文「邪馬台国の状態」で示した問題意識が「「戦後歴史学」での邪馬台国研究の先駆」と評価されている[44]。
そしてこれらの問題は戦後、1950年に刊行された藤間生大の『埋もれた金印』に継承される[45]。藤間は邪馬台国時代の社会は部分的には身分制や奴隷制が成立しつつあったが、全体としては共同体的な社会制度が機能していたとみて、社会の発展度から邪馬台国を九州北部だと考えた[46]。これに対し上田正昭は1958年の論文「邪馬台国問題の再検討」で卑弥呼に「初期専制君主の性格」を読み取り、また卑弥呼の死後の記述から邪馬台国の王が本来男子であり、台与も先代の王の身内から選ばれていることから王権の継承が世襲化されつつあると説いた[47]。
上田に対し、井上光貞が1960年の著書『日本国家の起源』において卑弥呼が邪馬台国の女王ではなく倭国の女王であったことを指摘し、その共立の記述やその他の政治構造にかかわる記述から卑弥呼時代には「初期専制国家」を読み取れず、「原始的民主制」の段階と想定した[48]。
所在地論から倭国論へのシフト(1970年代以降)
石母田正は1971年の著書『日本の古代国家』で、卑弥呼には国内向きのシャーマン的女王としての側面と外向きの「親魏倭王」としての側面の両方があることを指摘する[49]。
卑弥呼を倭国の王とする井上の議論や、東アジアのなかで倭国の性格を考える石母田の議論は、西嶋定生に引き継がれる[50]。西嶋は1991年の論文「「倭国」の形成時期について」などで卑弥呼が「倭国の女王」であることを改めて強調し、2世紀初頭に成立した「倭国連合」の時代であると主張した[51]。さらに西嶋は倭国の性格について「強力な専制権力」を想定した[51]。
吉田晶は倭国王の卑弥呼が威信財である舶来の文物を所有することで権威を象徴しつつ、その一部を下賜することで改めて倭国王の権威を確認させたと述べる[52]。平野邦雄は2002年の著書『邪馬台国の原像』において、卑弥呼は倭国の王であると同時に邪馬台国の王でもあったとし、邪馬台国の王である人物が倭国の王として共立されていたのだとする[53]。そして平野は魏の皇帝が卑弥呼に贈った「別貢物」としての「銅鏡百枚」とは別に、交易品として輸入された銅鏡が多数存在したと想定し、この場合小林の説が成立しなくなると指摘する[54]。
論拠
笠井新也は邪馬台国の位置を推定する基準に「地名の一致」、「遺跡の一致」、「行路・行程の一致」の3点を挙げた[36]。久米邦武も「邪馬台の考証時代」(文献解釈)と「其地を探検すべき時期」(遺跡の比定)を考えていた[55]。
地名
上代特殊仮名遣いの検討から、「邪馬台」の「台」は乙類、畿内大和の「と」も乙類である一方、筑後山門の「と」は甲類に属することから、邪馬台国の表記に一致するのは大和であるという[56]。
そもそも、2006年現在、近年の九州説はかつての筑後山門説のような一致した比定地を持っていないことが弱点の一つとされる[57]。
文献解釈
『魏志倭人伝』に記載された方位と距離に従って邪馬台国の位置を求めると、九州南方の海上に存在することになってしまう[4]。従来は、畿内説を採るには方位を疑い、九州説を採るには距離を疑う必要があると考えられていた[4]。
しかし研究が進展するなかで、『魏志倭人伝』をそのまま読むのではなく、『三国志』を編纂した陳寿の偏向、魏の内政と外交、陳寿たち史家の世界観といった当時の事情を加味したうえで記述を読み解く必要性が示されるようになった[58]。方位については『魏志倭人伝』で倭国の所在地を「まさに会稽・東冶の東に在るべし」と記述することなどから、当時の魏では日本列島が朝鮮半島から南に長く延びる群島であると誤って認識されていたことが知られる[59]。また、入れ墨を入れる場所、服装や道具の習俗、女性が多いことなどは南国の文化に関する記述が参照されているので、ここからも倭国を「中国の東南」の国として書く意識がみえる[60][注釈 1]。
また距離についても、白鳥庫吉以来の「短里」説[21][注釈 2]や榎一雄の「放射コース」説[注釈 3]などの仮説が唱えられてきたが、帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里という里数は当時の中国における天下の理念に基づくものと考えられる[65]。『山海経』の記述から計算すると「東海」は12500里の広がりを持ち、都から「方万里」の半分の位置に植民地である帯方郡が位置し、そこから「一万二千余里」の地点が「東海」の果てにあたる[66]。すなわち「一万二千余里」は実際の距離を反映せず、邪馬台国が魏王朝の支配が及ぶ限界の地点であることを示す記号的な数値である[67]。
考古学

倭国乱の終結として卑弥呼が共立された際に新たに造られた王都が纒向遺跡であるとされる[68]。纒向遺跡の出現は3世紀初頭にあたる庄内0式で[69]、西日本と東日本各地の重要な結節点に立地している[70]。最初に箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定したのは笠井新也だが[38]、21世紀において古墳の年代論が確立してきたなかで改めて多くの研究者が箸墓古墳を卑弥呼の墓と考えている[71][注釈 5]。また、前方後円墳という墓制を新造するにあたって、各地域の要素が持ち寄られたような状況が確認されており、これが「共立」に関連させて考えられている[73]。
また、倭国乱を契機に九州北部が衰退し、畿内・吉備に物資流通の主導権が移行したという議論に対し[74][3]、日本列島における朝鮮半島の土器の出土分布を検討した久住猛雄によれば、その時期に九州北部と楽浪郡との「原の辻=三雲貿易」が衰退することは確認できず[75]、むしろ畿内の新たな倭王権が九州北部の勢力との直接的な関係を取り結ぶことで大陸との交渉をスムーズにしたという様相が復元できる[76]。
なお卑弥呼共立に主導権を握ったのが畿内で自生した勢力であったとする説と、伊都・吉備・出雲といった畿内以外の勢力であったとする説の両者が存在する[77]。
他方の九州説の弱点として、邪馬台国時代の遺跡の不在が挙げられる[3]。かつて吉野ヶ里遺跡の発見により、邪馬台国が発掘された、あるいは九州説が断然有利になったという一般的なイメージが流布したものの、実状としては里程の不一致、邪馬台国時代における衰退から吉野ヶ里遺跡を邪馬台国に比定することは現実的でない[78]。