鄭亜
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元和15年(820年)、進士に及第し、さらに賢良方正科や直言極諫科に応じた。吏部の官吏選抜の考査を通過し、書判抜萃科に登第した。李徳裕が翰林院にいたとき、鄭亜はその文才によって知遇をえた。李徳裕が浙江西道都団練観察等使に出向すると、鄭亜は従事として召し出された。李徳裕の党与として遠ざけられ、長らく任用されなかった。会昌元年(841年)、入朝して監察御史となり、刑部郎中に累進した[1][2]。会昌3年(843年)、兵部郎中・史館修撰・判史館事として『憲宗実録』40巻を重修し、進上した[3]。また陳商とともに『敬宗実録』10巻を編纂した[4]。御史中丞の李回の推挙により、諫議大夫・給事中に転じた。会昌5年(845年)、正議大夫の位を受けた[1][2]。会昌6年(846年)に李徳裕が宰相から退任して荊南節度使として出されると[5][6]、大中元年(847年)に鄭亜も桂州刺史・御史中丞・桂管都防禦観察使として出された[7]。大中2年(848年)、呉汝納が弟の呉湘の冤罪を訴えて、李徳裕がさらに潮州司馬に左遷されると、鄭亜も循州刺史に移された。のちに死去した[1][2]。