鄭畋
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会昌2年(842年)、進士に及第し、汴宋節度推官を初任とした。秘書省校書郎となった。大中元年(847年)、吏部の官吏選抜の考査を通過し、さらに書判抜萃科に登第した。渭南県尉に任じられ、直史館をつとめることとなった。赴任しないうちに、父の鄭亜が桂管都防禦観察使に出向すると、鄭畋はつき従った[1][2]。
大中年間、白敏中と令狐綯が相次いで宰相となったが、李徳裕と険悪で、李徳裕と親しい者たちが排斥され、鄭畋も長らく任用されなかった。大中13年(859年)、令狐綯が河中節度使に出向され、劉瞻が北門に駐屯すると、鄭畋は召し出されて従事となった。入朝して虞部員外郎となった。令狐綯の党与の尚書右丞鄭薰に排斥され、再び従事として出された[3][2]。
咸通5年(864年)、入朝して刑部員外郎となり、万年県令に転じた。咸通10年(869年)、劉瞻が宰相となると、鄭畋は推薦を受けて翰林学士となり、戸部郎中に転じた。ほどなく知制誥を加えられた。まもなく中書舎人に任じられた[4][2]。
官軍が徐州の龐勛の乱を討つにあたって、禁中から出された詔書は鄭畋の手で書かれた。ほどなく戸部侍郎に転じた。龐勛の乱が鎮圧されると、鄭畋は本官のまま翰林学士承旨をつとめた[5][6]。
咸通11年(870年)、懿宗が医官の一族を逮捕したことを諫めた劉瞻は宰相を罷免され、荊南節度使として出向された。懿宗の怒りは甚だしく、劉瞻と親しかった鄭畋も連座して梧州刺史に左遷された[7][6]。
咸通14年(873年)、僖宗が即位すると、鄭畋は郴州刺史、次いで絳州刺史に移された[6]。長安に召還されて、右散騎常侍に任じられた[7]。乾符元年(874年)、吏部侍郎に転じた。ほどなく兵部侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[8][9][10]。僖宗に尊号を奉る礼を終えると、鄭畋は中書侍郎を加えられ、特進となった。乾符2年(875年)、門下侍郎に転じ[11]、礼部尚書・集賢院大学士を兼ね、滎陽郡侯に封じられた[7][6]。
乾符6年(879年)、黄巣が安南都護府を陥落させて占拠すると、鄭畋は嶺南節度使の任を求めた。いっぽう宰相の盧携が高駢を推挙して争ったため、僖宗の怒りを買い、ふたりとも宰相から解任され、鄭畋は太子賓客・分司東都として出された。広明元年(880年)、黄巣が嶺南から長江を渡って、淮南の州県を攻略すると、鄭畋は僖宗に召還されて、礼部尚書に任じられた。ほどなく鳳翔尹・鳳翔隴右節度使として出向した。精鋭500を徴募して「疾雷将」と称した。12月(881年1月)、黄巣が長安を陥落させ、僖宗が避難すると、鄭畋は斜谷で僖宗を迎えた。鄭畋は鳳翔府に帰り、兵器を補修し、城塁を修築して、防戦を準備した[12][13]。
広明2年(同年)2月、黄巣の将の尚譲と王璠が5万の兵を率いて、鳳翔府を攻めようとした。鄭畋は来攻を察知すると、大将の李昌言らに命じて要害に兵を伏せさせた。尚譲らは鄭畋を儒者とみなして軽んじていたため、部隊を整えることもなく長駆してやってきた。鄭畋は精鋭数千を率いて、小高い丘に布陣すると、旗幟を偽って立てて数里の長陣に見せかけた。尚譲らは鄭畋の軍の数を測ることができず、部隊を整列させようとしたが、後方からくる軍が追いついていなかった。そこを李昌言らの伏兵が襲撃し、勝利を収めた。龍尾陂に追撃して、1万人を斬首し、兵器を鹵獲した。鄭畋は検校尚書左僕射・同平章事を加えられ、京西諸道行営都統をつとめた。鄭畋は帝室を扶け、黄巣を討つよう天下に檄を飛ばした。ほどなく位を検校司空に進め、門下侍郎・京城四面行営都統となった[14][15]。
中和元年(同年)冬、鄭畋は突然の病のため節度使の退任を願い出て、李昌言を後任に推薦して、僖宗の行在である成都府に向かった。中和2年(882年)1月、鄭畋は成都府に到着すると、王鐸が鄭畋に代わって行営都統となった。2月、鄭畋は再び検校尚書左僕射・同平章事(宰相)とされたが、病のため重ねて要職からの解任を願い出た。中和3年(883年)7月、宰相から罷免され、検校司徒・太子太保に任じられた[16]。鄭畋は子の鄭凝績の赴任先である壁州で養生することとなった。中和4年(884年)、鄭凝績が龍州刺史に転じると、鄭畋はつき従った。光啓3年(887年)、龍州の宿舎で死去した。享年は63。太傅の位を追贈された。諡は文昭といった[17]。