鄭絪
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池州刺史の鄭羨の子として生まれた。若くして非凡な志を抱き、学問を好み、文章を作るのを得意とした。大暦年間、儒学で高名となり、張参・蔣乂・楊綰・常袞らと交友した。進士に及第し、博学宏辞科に登第し、秘書省校書郎・鄠県県尉に任じられた。張延賞は剣南西川節度観察使に転じたが、鄭絪は召し出されて掌書記となった。入朝して補闕・起居郎に任じられ、史職を兼ねた。ほどなく翰林学士に抜擢され、司勲員外郎・知制誥に転じた。徳宗の朝廷で宮中の職にあること13年、細心でへりくだり、徳宗にすこぶる厚遇された[4][5]。
貞元21年(805年)、徳宗が死去し、順宗が即位したが、遺詔が宣下されなかった。鄭絪は同僚の衛次公と正論を申し立てたので、宦官たちもあえて異論を立てようとはしなかった。王伾や王叔文らが永貞革新を進めた際も、鄭絪は協力せず中立を守った。憲宗が監国すると、鄭絪は翰林学士のまま中書舎人に転じた。まもなく中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられ、集賢院大学士を加えられた。門下侍郎・弘文館大学士に転じた[6][7]。
元和元年(806年)、鄭絪は杜黄裳とともに政権を握り、楊恵琳や劉闢を処断した[6][7]。元和4年(809年)、宰相を退任し[8]、太子賓客に降格した[9]。元和5年(810年)、嶺南節度使・広州刺史・検校礼部尚書として出向し[10]、清廉な統治で知られた。元和9年(814年)、工部尚書となった[11]。太常寺卿に転じ、さらに同州刺史・長春宮使として出された[6][7]。元和13年(818年)、東都留守に転じた[12]。長慶元年(821年)、入朝して吏部尚書となった[13]。長慶2年(822年)、兵部尚書となり、太子少傅を兼ねた[14]。長慶4年(824年)、再び吏部尚書となった[15]。大和2年(828年)、御史大夫・検校尚書左僕射となり、太子少保を兼ねた[6][16]。
鄭絪は老衰のため重ねて引退を求める上表をおこない、太子太傅として致仕した。大和3年(829年)10月、死去した。享年は78。司空の位を追贈された。諡は宣といった[6][17]。