酒井忠予
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明暦3年(1657年)8月15日、浅草天王町に生まれる[1]。始め誕生は秘密にされ、出生後まもなく左沢(あてらざわ)の松山藩士中根清兵衛に預けられ養育された[2]。延宝3年(1675年)10月6日、父忠恒の死去により跡を継ぐ[3]。同年2月26日、従五位下石見守に叙任され[4]、のちに名を忠予に改める[5][6]。大坂城加番を複数回務め、日光勤番にも就いている[7][8]。家督相続以前より藩財政は窮乏化し、さらに大雨洪水による水害や冷害、ウンカの害により飢饉が続き、松山御屋敷の火災も重なって、藩財政再建のために俸禄の借上(上米)や[9]、漆や山畑への新たな課税を行っている[10]。享保17年(1732年)11月25日、養嗣子の忠休に家督を譲って隠居し[11][注釈 1]、享保20年(1735年)12月16日に松山で死去、心光寺に葬られた[13]。享年79歳。