遠藤胤親
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出自
天和3年(1683年)5月14日、旗本白須才兵衛政休の長男として生まれる。母は5代将軍徳川綱吉の側室お伝の方(瑞春院)の妹・お松。才兵衛は、4代将軍徳川家綱の生母であるお楽の方(宝樹院)の弟・増山正利に始まる大名増山家の家老・白須十兵衛の三男であったが、お松を娶ったことで召し出されて旗本になった[1][2]。また『柳営婦女伝系』によれば、瑞春院ら姉妹の母は、宝樹院の母方の叔母の娘であった[3]。なお、のちに増山家2代・増山正弥の娘が遠藤胤親の継室になっている。
遠藤家の相続と三上藩の立藩
元禄5年(1692年)3月に郡上藩主遠藤常久が7歳で死去したことにより、遠藤家は無嗣改易となった。
幕府では遠藤家の祖先の功績などを考慮して、白須数馬を5月に一旦遠藤家親族で数馬の義理の伯父(瑞春院の姉の夫)にあたる美濃大垣新田藩主・戸田氏成の養子にした上でさらに遠藤家の養子(転養子)とし、常陸・下野国内で1万石を与えて、大名遠藤家の再興を認めた。遠藤家の直接の縁者ではない白須数馬が選ばれたことなどに、血縁者を大名としたい瑞春院、もしくは瑞春院を利用して改易撤回という無理筋を通そうとした何者かの工作があったことが推測される。
元禄11年(1698年)3月7日、胤親は所領を近江4郡に移される。三上村に陣屋が造られ[4]三上藩が立藩、初代藩主となる。宝永6年(1709年)3月7日に従五位下・下野守に叙位・任官する。宝永7年(1710年)に朝鮮通信使の饗応役を務め、その後も江戸城馬場先門番・和田倉門番・一橋御門番などを務めた。享保8年12月18日(1724年)に但馬守に遷任する。
享保18年(1733年)9月25日、家督を長男の胤将に譲って隠居する。なお、胤将は戸田家一族から氏成の姪孫を継室に迎えている。
享保20年(1735年)3月2日に死去した。享年53。