1877年11月8日、山口県玖珂郡横山村にて安次郎、アサの5人兄弟の末弟として生まれる。14歳になり小学校高等科を終え中学校進学を望むも、家庭事情と姉が嫁いでいた菊元家から乞われたため、進学をあきらめ商売の手伝いに出た。菊元家は打綿、紡績糸、染糸、岩国縮等を扱っており、特に岩国縮は大阪、名古屋、東京方面から売れ行き好調だった。成年後、徴兵検査を受け合格、21歳で山口歩兵連隊に入隊。1900年6月、北清事変にて清に出征、同年11月帰国。翌年、勲八等白桐葉章を授与された。2年の兵役後、菊元に戻るが、同時期に実兄・定次郎が経営していた重田酒造場が失敗、事後処理にも携わった。
同時期、岩国出身の田村積太郎が台湾にて菊元に織物の発注し販売を試みたが、当地の需要に合わない製品を揃えたため失敗した。重田は状況視察と処分のため台湾へ渡航。その後同地にて、菊元、田村の了解を得て在庫整理と自らの商売を興すことにした。一度帰国ののち1903年10月に渡台、台北市に菊元商行を設立(菊元の名は冠するも出資は受けていない)。当初は賀屋商会という帆布問屋の一部を間借りし、内地からの綿布輸入販売を行った。当時の台湾織物市場では中国からの輸入綿布及び香港経由で流入した欧州製品が占めていたが、重田は当地の需要に即した製品を研究、岩国の生産者に発注したことで他の輸入品を駆逐し、繁盛した[2]。1906年1月、妻帯。賀屋商会は手狭となったため、栄町に移る。1907年、父と兄を台湾に呼び寄せる。1909年、兄に呉服店を栄町に開業させるとともに、自らは本省人街であった大稲程地区に移り綿布問屋を開業。台湾全土のみならず中国南部まで販路を広げた。第一次世界大戦が勃発すると、長年中国において販売権を掌握してきた英国に代わり、日本製綿布は売上を伸ばし、台湾はその拠点となり発展した。大戦中は重役を引き受けていた義済堂の経営にも関与した。1918年、ソウルを視察。黄金町に店舗敷地を購入し、日本を本拠に台湾、朝鮮にて経営する計画を立てたが、世界恐慌の勃発により断念。太平町三丁目に新築小売商店を開業した。元々一等地とは言いがたく、商売にも適さないと考えられていた立地であったが、品質の良さと定価販売により、開業早々に盛況となった。1928年発刊の台湾人物録『台湾の新人旧人』には台湾一の多額納税者と紹介されている[3]。
菊元百貨店(1942年)
1931年、菊元百貨店開業を計画して、内地の中小百貨店を視察し帰台。設計を台湾土地建物株式会社、施工を米重工務所に依頼し、栄町三丁目の栄町通(現衡陽路)と興京通(現博愛路)交差点の角地に建てた。1932年12月3日開業。台湾初の百貨店となった。元々6階建てRC構造として建てられたが1935年に7階が増築され、総督府に次ぐ高さを誇り、民間では最高で「七重天」と呼ばれた。同年、個人経営を株式会社に改組し、株式会社菊元商行設立。
1933年、重田は資金を提供し、中治稔郎が台北市士林三角埔の東側斜面に寺院を建立、天上聖母を祀り、天母教を創設することを支援した。これが現在でも残る天母という地名の由来となった[4]。特に、同地での大衆温泉開発に意欲を燃やしていたが、軌道に乗る前に敗戦を迎えた。
1935年に長男・平太郎が慶應義塾大学を卒業すると、南方貿易業務にあたらせ、マニラ、バンコク、香港、ビルマなどを拠点に業績を上げた。
1935年11月、台北市会議員。1940年11月、台北州会議員。他にも台北市防空委員、台北市商工会議所議員、同副会頭、台北州経済会議員、同副会頭、台北消防組長などを務めた。1943年11月3日、緑綬褒章[5]。
1945年、敗戦により重田家の資産は中華民国政府により没収された。1946年10月19日、基隆港より出港。岩国市横山に戻った。