重野安繹
日本の歴史学者・漢学者
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経歴
1848年(嘉永元年)、江戸・昌平黌の生徒になり、塩谷宕陰、安井息軒などの教えを受ける。
1857年(安政3年)に薩摩に帰郷するが、同僚の金の使い込みにより奄美大島に遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。1863年(文久3年)に赦免されて薩摩に戻り、翌1864年(元治元年)に造士館史局主任に就任、島津久光の命により『皇朝世鑑』を著す。
岩下方平らとともに薩英戦争の戦後処理に辣腕を発揮し維新後は外務職を勧められたが学界に進んだ。1868年(明治元年)に大坂に移り、私塾成達書院を開いた。成達書院の門下生に岩崎弥之助がいる。
1871年(明治4年)に上京し、1875年(明治8年)以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。1879年(明治11年)、帝国学士院会員。1881年(明治14年)、『大日本編年史』編纂に参加した。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話(「桜井の別れ」など)を否定し「抹殺博士」の異名をとった。しかしこのような主張は川田甕江ら国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させ、のちの久米邦武筆禍事件の原因の一つとなった。
この間、1879年(明治12年)の東京学士会院創設とともに会員となり、漢文訓読を廃し音読による中国語教育の水準向上を主張した。また同年来日した清国の洋務派知識人の王韜との交遊を契機に、翌年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。
1888年(明治21年)、5月、学位令に基づき、小中村清矩、外山正一、加藤弘之、島田重礼とともに日本初の文学博士となる。帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任、その翌年には「史学会」初代会長に就任。
1889年(明治22年)近代実証史学の立場から『赤穂義士実話』を著す。それまであった赤穂浪士・寺坂信行逃亡説の証拠を論破し、逆に彼が討入に参加した証となる史料を提示した。それ以来、寺坂逃亡説は口にする者が減ったとされる。
1890年(明治23年)、星野恒・久米邦武と共に『国史眼』を執筆。同年9月29日には貴族院勅選議員となった[4]。しかし1892年(明治25年)の久米邦武筆禍事件の影響で重野は翌年に帝大教授を辞職、修史事業も中止された。
1902年(明治35年)3月24日、錦鶏間祗候となる[5]。1910年(明治43年)、83歳で没。墓所は東京都台東区の谷中霊園。
著書
家族・親族
父は薩摩藩士・重野野水(太兵衛)。
長女の安(1862-)は下啓助(水産講習所所長)に嫁ぎ、その娘かつは森田俊佐久と森田卓爾の弟・森田司楼に嫁いだ[6]。
養女のやす(1871-)と尚は養従弟・重野安居の娘で、やすは田健治郎に、尚は大久保利通の長男・利和に嫁ぐ(姉妹の妹二人は新元鹿之助、山崎四男六の妻)。
妻はきく子、長男は紹一郎という。
祖父の新左衛門は、長男の太兵衛(安繹の父)が家業の商売に努めなかったことから資産を分けて別居させ、二男の新兵衛(重野安居の父)に家督を継がせたという。母は弓削氏。
- 系譜 重野家
- 重野新左衛門 - 祖父
- 弓削(名 - 祖母。弓削氏
- 重野野水(太兵衛) - 父
- 重野新兵衛 - 養子。家督を継承。