金印
金でつくられた印章
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概要

古代中国およびその周辺国において、太子、諸王、列侯などの高官が所有していた、権力の象徴である。後に中国の詩文において、「官位の象徴」という意味で使われるようになった。
日本においては、江戸時代に福岡県志賀島で発見された奴国王の金印(「漢委奴国王印」)(国宝)が有名で、単に「金印」というと基本的にこれを指す。
後世の偽作が疑われるものも多い。日本で出土した「漢委奴国王印」にも、発見された当時より偽造説(福岡藩の学者によって偽造された)があった。その論拠の一つとなったのが「蛇鈕」(蛇を象った取っ手)という他に例のない形式だったが、1957年に中国の雲南省で出土した「滇王之印」が「漢委奴国王印」と同じ「蛇鈕」だったことにより、逆に真作説が高まり、現在では本物だろうと考えられている。また、1981年に中国の江蘇省で出土した「廣陵王璽」が「漢委奴国王印」と同じ規格(重量も書体もほぼ同じ)だったことにより、この2つは同じ工房で製作されたのだろうと考えられている。
冊封
東アジアの冊封体制の元では、皇帝が諸国の王を臣下と認める証として、その定められた地位に応じ玉印・金印・銀印・銅印などが与えられた(印綬)。
有名な出土例としては、1957年に中国雲南省昆明市晋寧区の石塞山第6号墓で出土した「滇王之印」(『史記』西南夷列伝に記された、元封2(B.C.109)年に武帝が滇族の王である離難に与えた「王印」だと比定されている)、1981年に中国江蘇省祁江県の甘泉二号漢墓で発見された「廣陵王璽」(『後漢書・輿服志』の徐廣の注にある、後漢の明帝から光武帝の子である広陵思王 劉荊に与えられた「金印」だと比定されている)などが存在する。日本で出土したものとしては、江戸時代に志賀島で発見された金印(「漢委奴国王印」)が有名で、『後漢書』東夷伝の倭条にある、建武中元二(57)年に光武帝が倭奴國に与えた「印綬」だと比定されている。
東夷(現在の中国東北部、朝鮮、日本などの地域にあたる)の諸国に与えた例として、史書に見られるものとしては、『後漢書』東夷伝の夫余条には、永寧元(120)年に夫余王の子である尉仇台に「印綬金綵」を与えたことが記されており、また『三国志』「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝の倭人条(「魏志倭人伝」)には、卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えたことが記されている。
日本の金印
日本では、福岡県福岡市東区の志賀島で発見された「漢委奴国王印」[1]が最も著名であり、国宝に指定され福岡市博物館(福岡市早良区)に収蔵されている。また、金印が発見されたとされる場所には現在金印公園がある。
日本国内に存在する(可能性がある)のは次の4つ。
親魏倭王
漢委奴国王印
建武中元二年(西暦57年)、光武帝が倭の奴国に「印綬」を与えた。江戸時代の天明年間に志賀島で発見された「漢委奴国王印」がこれだと比定されている。もし偽造説をとる場合、本物が日本のどこかに別に存在する可能性がある。
日本国王之印(勘合印)
明国と室町幕府の貿易(勘合貿易)に当たっては、明の永楽帝から足利義満に「日本国王之印」の金印(勘合印)が与えられた。
これは後に戦乱で失われたため、幕府に代わって勘合貿易の主導権を握った大内氏によって偽造された(と推測されている)「木印」が使われた。
「木印」は大内氏の滅亡後に毛利元就が入手し、当初からの金印のものと考えられる印箱・印箱の錠前・鍵とともに重要文化財に指定され、現在は毛利博物館に所蔵されている。
日本国王之印(対馬藩)
文禄5年(1596年)9月、文禄の役の和平交渉のため来日した明の使節が、豊臣秀吉に押させようと持参したが、秀吉が「日本国王」であると示すことは、秀吉が明皇帝の配下であることを意味するため、明皇帝と対等の立場であることを望む秀吉が激怒。交渉は決裂し、再出兵に至る(慶長の役)。
慶長10年(1605年)、朝鮮と日本の和平交渉が開始されるが、明と冊封関係にある朝鮮は、日本と対等の立場であることを望んだため、交渉にあたった対馬藩は、家康の名前と「日本国王」の印が押された国書を偽造した。国書の正統性に不審を抱いた朝鮮側が、「日本国王」の印が押されてあったことに関して対馬藩に問いただすと、対馬藩は「この印は明皇帝が秀吉に与えたが、秀吉が受け取らなかったので対馬藩に持ち帰った」と返答した由の記述が、第一回朝鮮通信使副使・慶暹(慶七松)の日記『慶七松海槎録』にある。
寛永10年(1633年)、対馬藩による国書偽造の事実が発覚する(柳川一件)。これを機に幕府は朝鮮に対し「大君」号と日本元号の使用を伝え、寛永13年(1636年)来日の朝鮮通信使から正式に使用される。
その後、対馬藩が所有していた(らしき)金印の所在は不明。

