卑弥呼

西暦3世紀中頃に倭の邪馬台国を統治した女王 From Wikipedia, the free encyclopedia

卑弥呼(ひみこ、旧字体: 彌呼建寧3年(170年)頃 - 正始9年(248年))は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている倭国女王[1]

在位 中平5年(188年)頃 - 正始8〜9年(247年248年
出生 建寧3年(170年)頃
死去 正始8〜9年(247年248年
子女 台与(宗女)
概要 卑弥呼, 在位 ...
卑弥呼
女王
在位 中平5年(188年)頃 - 正始8〜9年(247年248年

出生 建寧3年(170年)頃
死去 正始8〜9年(247年248年
子女 台与(宗女)
王朝 倭国
宗教 鬼道
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史書の記述

魏志倭人伝の原文の抜粋

『後漢書』

  • 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。
  • 永初元年(107年) - 倭国王の帥升安帝に拝謁を願う。
  • 桓帝霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱
  • 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。

『三国志』

『魏志倭人伝』によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。魏志倭人伝で「其俗、擧事行來有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶」(その風俗では、何か事を行う時には、骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように、卑弥呼も卜術をよく行う巫女(シャーマン)であり、儒教の反迷信(鬼神信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。

本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫婿)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治国)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自為王以来、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどする[2]とともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、伝辞出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居処宮室・楼観、城柵厳設)。

  • 後漢桓帝・霊帝の頃 - 倭国で男性の王の時代が続いた(80年間程度か)が、その後に内乱があり(6年間程度か)、一人の女子を立てて王とした。その名を卑弥呼といい(卑弥呼の即位)、ほどなく成人(十五歳から十八歳か)となっていた。配偶者は持たなかった。1,000人の侍女が仕えていた。
  • 景初二年(238年)6月 - 卑弥呼が派遣した難升米らが帯方郡に到着。同年12月(新暦239年1月22日~2月20日)、首都洛陽で天子の明帝(景初三年説の場合、新帝となった少帝曹芳、斉王芳)から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えるとの帝詔を受けた。
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬、采物一式を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊声耆、掖邪狗ら八人に返礼を托して魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。『魏志倭人伝』以外の箇所では、「巻四 魏書四 三少帝紀第四」にも正始四年に「冬十二月倭国女王俾弥呼遣使奉献」とある。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[注釈 1]
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、当時、卑弥弓呼(卑弥弓呼、ひみここ、ひみくこ)が治める狗奴国との戦いを報告した。魏は、帯方郡張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢[注釈 2] を授与。
  • 正始八年(247年) - 卑弥呼が死去。倭人は径百余歩(この時代も、中国の歩(ぶ)は、六尺、約1.5メートル)の冢(盛り土した塚)を作り、奴婢百余人が徇葬したとされている
  • 正始八年(247年)以降 - 男王が立ったが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「台与」を王に立てると国中が遂に鎮定した。倭女王台与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文雑錦20匹を貢いだ。

『晋書』

  • 西晋武帝の 泰始二年(266年) - 倭の最後の遣使、入貢。
  • 曹魏少帝曹芳 斉王芳の正始元年 東倭が司馬懿の下に参上したと一件書かれているが、「倭人」と見て良いかどうか不明である。司馬昭の記事に、諸夷の参上が示唆されているが、晋書であるのに「倭人」が明記されていない。

『三国史記』新羅本紀

  • 173年 - 倭の女王卑弥乎[注釈 3] が新羅に使者を派遣した[3]
  • 193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ押し寄せた[注釈 4][4]
  • 208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ[5]
  • 232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
  • 287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

『三国史記』于老列伝

  • 233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老[注釈 5] が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
  • 249年 - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老[注釈 6] を殺した。

以下、後代正史に記事はあるが、いずれも倭国の歴史の回顧である。史料としての価値は低い。

『梁書』

  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。卑弥呼という一人の女性を共立して王とした。
  • 正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死去。

『隋書』

  • 桓帝霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱
  • 189年前後か - 卑弥呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。

北史

  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。
  • 184年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。
  • 正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死去。

名称と発音

三国志魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷列伝 第七十五 「倭」)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』 巻八十一 列伝第四十六 東夷 「俀国」)、(『梁書』 巻五十四 東夷諸戎 「倭」)では「卑弥呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑弥乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾弥呼」と表記されている。

現代日本で「ひみこ」と発音されるが、Bentley[6]は上古の日本語発音を再建し、卑弥呼は「*pe-mehɔ」と発音されたとしている(→「邪馬台国の言語」を参照)。

卑弥呼の出自

卑弥呼が登場する史書には、出身地、出自に関する記述はない。福岡県糸島市平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土したことや、『魏志倭人伝』における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある(#主な比定古墳も参照)。上田宏範は「「皆女王国統属す」と読めば、立場は逆になり歴代の王権はさらに強力だったと考えられる」としている[7]高島忠平は、卑弥呼はヤマト王権大王と同様に、女王居処ではなく出身地に葬られたとし、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性が高いとして[8]伊都国の出身である可能性を示した。

寺沢薫は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している[9]

また、寺沢は、弥生時代の北部九州の王墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司祭主)だったのではないかと述べている。またこの姉と弟はある部族的国家の王統であるとした[10]

卑弥呼の統治形態

卑弥呼の行った「鬼道」とはシャーマニズムのことであろうと推測されており[11]、未開社会においては王がシャーマンの役割を兼務していた可能性もあるが[12]身分制が確立してくるとシャーマンと祭司は分化し、祭司は上層に、シャーマンは下層になることが多い[13]。また部族社会では祭司の家系は部族の創始者、すなわち世界=社会の創造者に由来し、祭司=王であることも多いという[14]

琉球研究の泰斗である鳥越憲三郎は、卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を琉球国聞耳大君琉球国王のような祭政二重主権の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという[15]。これは古代社会に広くみられるヒメ・ヒコ制の男女二重主権であると思われる[11]

ヒメ・ヒコ制の男女二重主権のヒメは奈良時代まで続いたと見られ、ヒコは5、6世紀に父系的政治社会に転換したとみられる[11]。ヒメ・ヒコ制の例は神武紀の宇佐の兎狭津彦・兎狭津媛や景行紀十八年の阿蘇国の阿蘇都彦・阿蘇都媛、『播磨国風土記』の吉備比売、吉備比古、景行紀十二年の神夏磯媛など九州に多く見られ、直木孝次郎神功皇后もその一例だろうと述べている[16]

先述のとおり、寺沢薫も弥生時代の北部九州の王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司祭主)だったのではないかと述べている[17]

また伊勢神宮には未婚の皇女が天皇の代替わりごとに派遣されて祭祀をする斎宮の制があったが、これも古代以来のヒメ・ヒコ制の伝統であると言われている[18]。なお戦後の神宮祭主も全て皇族出身の女性が就任している。

ただし、記紀の伝えるように世襲王権である天皇家と血縁よりも呪術力を重視していた卑弥呼では王権の次元が異なることには留意すべきである[19]

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ)らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は)塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。

誤解の多い247年(正始8年)は、実際には卑弥呼の死没年ではなく、帯方郡の新太守王頎の着任年である。したがって、卑弥呼の死没年は事実上不明である。卑弥呼の死没年については何の記載もなく、一年の内に起こったとは考えにくい量の記述がある為、卑弥呼の死が247年か248年、あるいはさらに後の嘉平年間とする学者もいる。特定することは困難である。

以死」の訓読についても諸説あるが、以下の根拠から「死するを以て」あるいは「すでに死す」と訓んで「卑弥呼がすでに死んでいた」と解釈するのが通説である。南宋鄭樵が編纂した『通志』の「四夷伝(194巻4巻)」において、現行の通行本魏志倭人伝に「卑弥呼以死」とある箇所が、「卑弥呼已死」と表記されていることが判明した [20]。これは現行倭人伝の成立前後の類書の編者である鄭樵が、倭人伝本文を「正始八年時点で卑弥呼がすでに死んでいた」と解釈していたことの直接的な証左である。

ところで、一部の邪馬台国九州説論者が卑弥呼の死と日食を結びつけようとしたが、正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[21]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

卑弥呼の墓

卑弥呼の墓がどれであるのかは諸説あり、九州説の場合、平原1号に比定する場合があるが、平原1号は、土器編年では下大隈式期の2世紀末(柳田2000)で半世紀にも及ぶ顕著な乖離が認められる。また九州説では最も卑弥呼の墓に近いと言われてきた祇園山古墳においても、久住猛雄が今世紀に入り久住編年ⅡC期に編年し、4世紀初頭頃の年代が与えられることとなり、九州説における卑弥呼冢の候補は再考を迫られるか、その候補さえ喪失した。

現在、最有力と考えられているのは奈良県桜井市纒向の箸墓古墳である。箸墓古墳は最初の定型化前方後円墳であり、後円部と魏志倭人伝の記載の径百余歩(144m)がほぼ一致している。また、各種の年輪年代法などの理化学的測定法や、土器編年、銅鏡編年によって、徐々に時代が古くなっていった。箸墓古墳を卑弥呼の墓とする考えは、畿内説を採る学者であっても強く否定する者が多かった(代わりとして、纒向石塚古墳、纒向勝山古墳などを挙げる例が多い[22])。

ところが、纒向遺跡の大型建物ABCDが発見され、卑弥呼の居館と目される超大型建物Dが、庄内3式期に廃絶されたことが分かると、魏尺の真南二里に位置する布留0古相の箸墓古墳とを結びつける学者が増え、現在では半ば定説化しつつある。

規模と形状

卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。一の単位は、ほぼ一定して、一歩六尺とされ、魏代では約1.44メートルと言われている。(いわゆる「長里」)従って、冢は、直径約144メートルの円形となるように見える。  一方、倭人伝の記事から、倭韓地方では「長里」とは別の単位(短里「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」)を使用していたとの仮説があり、これは、一里を三百歩と概算して、一歩を0.3メートルと概算し、冢は、直径約30メートルとする説であるが、正史史料に明記されていない。

「径」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もないではないとされる。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。また、倭人伝には、大人の冢は、軽微な盛土で封土すると明記されているので、墳丘墓に当たらないとする意見もある。

「大作冢」の大は作に掛かるので「大に作る」と訳され、大に作るとは大きな冢を作るものとされている。 一説では、敢えて、「多数の冢」と解して、「徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は、径百余歩の範囲に徇葬者、奴婢が百余人と読んだ上で、卑弥呼の死によって、径百余歩の範囲に100人の「殉死者」の冢が作られたと読むとしている。つまり、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」の記述は、卑弥呼の「冢」に付いての記述ではなく、卑弥呼の死によって引き起こされた事の記述であるとの意見もある。この場合「卑弥呼は既に死んでいたので、径100歩余りの範囲に徇葬者の奴婢が100人余りにより多くの冢が作られた」と読み替えている。

造成時期

卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。日本書紀による近畿ヤマト王権の年代観では、崇神天皇治世の少し前となる。

埋葬の特徴

魏志では、徇葬者であるが、一説では、殉葬者と読み替えて、「奴婢百餘人」と記述されている。 卑弥呼の墓を「古墳」と見て、徇葬者ならぬ、殉死者と解釈したために、以下、苦吟して、古墳埴輪が導入される以前だったと考えている。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。

また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺墓木棺墓甕棺墓と考えられる。

従って、手短に掘り下げた地下に「甕棺」を埋葬して、後日の改葬に備えて薄く盛り土するのであり、壮大な墳丘の盛り土の内部に石棺を収めるのではないと思われる。

主な比定古墳

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、畿内説では箸墓古墳に比定する説などがある。かつては九州説から平原1号墓[23]石塚山古墳[24][注釈 7]祇園山古墳などを卑弥呼の墓とする説があったが、まず平原1号が下大隈式期の2世紀末(柳田2000)、石塚山古墳が久住ⅡC期で3世紀末〜4世紀初頭と土器編年が固まったことで、これらの古墳は卑弥呼の墓の候補から外れる。

箸墓古墳
邪馬台国畿内説では、奈良県桜井市箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。宮内庁は箸墓古墳の被葬者を倭迹迹日百襲姫命に比定しており、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命とする説の根拠の一つとなる(#倭迹迹日百襲姫命説参照)。
しかし箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝の規模「100歩=約30メートル」とは一致しない。全長は漢尺200歩[25]で造られ、築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があり、卑弥呼の没年とは差があり、有槨の木棺であることが倭人伝の記載と一致しない。
ホケノ山古墳
箸墓古墳と同代もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳(奈良県桜井市)は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ[26][27]、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある[28]

人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、かつて邪馬台国論争に密接に結びついていた。ただしそもそも卑弥呼がヤマト王権の誰かであるということ自体、証明されていない。

古くは『日本書紀』編者による神功皇后説があり、江戸時代には日本の王が中国に朝貢していたと認めない国学者によって九州の女酋と考えられた。近代にいたって、邪馬台国九州説からは各論者の主張する比定地と関連する人物の名が挙げられ、畿内説からは内藤湖南による倭姫命説、笠井新也による倭迹迹日百襲姫命説などが登場した。

登場作品

甘木駅にて停車する甘鉄列車
水上バスのヒミコ、隅田川

小説

漫画

映画

特撮

舞台

テレビアニメ

下記の他、「卑弥呼」をモチーフに創作された「女王ヒミカ」および「邪馬台国」をモチーフに創作された「邪魔大王国」が登場する「鋼鉄ジーグ」(1975年、NET(後のテレビ朝日)、声優:高橋和枝)という作品も存在。

テレビドラマ

テレビ番組

ゲーム

音楽

絵画

彫刻

  • 冨永朝堂「卑弥呼」(ブロンズ像・木像、1971年、木像は晴明会館[58]
  • 村上炳人「卑弥呼」(木像、1989年、高岡市美術館[59]
  • 窪信一朗「卑弥呼」(銅像、2019年、行橋コスメイト)

その他

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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