金簡

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金簡(きん かん、満洲語: ᡤᡳᠨ᠋ᡤᡳᠶᠠᠨ 転写:gingiyan、生年不詳 - 乾隆59年(1794年))は清代の官僚、政治家。姓は金佳氏可亭[1]。家族はもともと内務府正黄旗包衣(宮中直属の奴僕身分)に属する高麗姓氏満洲旗人であったが、のちに満洲正黄旗に編入された[2]乾隆帝側妃の淑嘉皇貴妃の第三兄であり[3]総管内務府大臣、鑲黄旗漢軍都統、工部尚書吏部尚書などを歴任し、乾隆年間の重臣として活躍した。

生涯

金簡は、内務府正黄旗満洲包衣の第四参領の管轄下に属し、高麗佐領の出身である[注 1][1][3][4][5][6]。先祖は朝鮮の名門で、義州に世居していた[3]天聡元年(1627年)、金簡の曾祖父・三達理は、長兄・辛達理[注 2]らとともに一族を率いて後金に帰附し、通事官の職を与えられた[5]。金簡の祖父・尚明の事績は詳らかでない。父・三保は、巡視長蘆塩政、武備院卿、公中佐領などを歴任した。長兄の金鼎は藍翎侍衛を務め、次兄の金輝は兵部満洲左侍郎となった[3]

金簡は乾隆中期に内務府筆帖式として官界に入り、のちに奉宸院卿となる。

乾隆33年、崇文門副監督として勤務中に、吏部尚書兼崇文門正監督兼九門提督の托恩多が、両淮塩引を不正に売買した事件の主犯である高恒・普福らの家財を変価私買したことを弾劾した。

乾隆37年(1772年)、金簡は内務府総管大臣に昇進。同年、武英殿での刻書事務を主管し、『四庫全書』編纂の副総裁[7]として、編纂官員の考課・監督を担当した。また、巨大書籍の活字套版印刷の開発、いわゆる「武英殿聚珍版」を創始した。

乾隆39年(1774年)には戸部侍郎に転じて銭法堂を管掌し、さらに鑲黄旗漢軍副都統を兼任し、孔雀翎を賜る[2]

乾隆40年(1775年)、金簡は京局鼓鑄の閏月四卯(四度鋳造)を廃止するよう上奏し、乾隆帝の批准を得た[2]

乾隆43年(1778年)、乾隆帝は金簡に『四庫薈要』の編纂を主宰させ、工部尚書を署理させた[8]。同年、金簡は盛京に赴き、盛京将軍・弘晌とともに銀庫の銀両欠損の案件を調査し、侵盗が発覚した前署関防の拉薩礼・現任関防の彝倫をに従って処罰した[6]

同年、乾隆帝の東巡で盛京各地の城壁の崩落が目にとまり、軍機大臣らに調査させたうえで修繕費用を下賜。工部尚書の事務は金簡に暫時任せられた[6]

乾隆46年(1781年)、金簡は正式に工部を総理。

乾隆48年(1783年)、工部尚書・鑲黄旗漢軍都統に昇進[8]。乾隆49年(1784年)、金簡は淤塞を除く方法で京畿地域の河川を疏通し、静宜園碧雲寺の泉水や永定河を整備、また盧溝橋の破損した石材や欄干を修復した[6]

乾隆50年(1785年)、千叟宴に参加。その後まもなく『四庫全書』が完成し、金簡は功績を記録された。同年、乾隆帝は劉墉・徳保・金簡に明の十三陵の修繕を命じ、思陵の月台を増築し、享殿・宮門を拡張させた[6]

乾隆55年(1790年)、安南後黎朝最後の君主昭統帝らが清に投靠した際、乾隆帝は彼らを漢軍鑲黄旗の安南佐領に編入し、当時鑲黄旗漢軍都統であった金簡がその入旗事務を担当した。

同年、納蘭容若の甥・承安の家産を査収し、納蘭家の貴重な書画を宮中に献上した。

翌年(1791年)、昭統帝の遺臣である黄益曉・黎光霽らが帰国を請願した際、乾隆帝は金簡に彼らを本国へ送還させた[8]。乾隆57年(1792年)、金簡は吏部尚書へと転任。

乾隆59年(1794年)、金簡は病没し、は「勤恪[8]とされた。乾隆帝は褒賞の諭旨[注 3]を下し、祭葬の品を賜り、皇孫・綿懃(金簡の妹淑嘉皇貴妃所生の皇子である永瑆の長子である為、金簡の大甥にあたる)をして親ら祭奠に赴かせた[6]嘉慶年間初頭、金氏一族は内務府から満洲正黄旗へと編入され、嘉慶帝から「金佳氏」の姓を下賜された[6]

別荘「尺五園」があり、京城右安門外に位置していた[9]

家系

  • 高祖父:金徳雲。
    • 曾祖父:三達理 - 通事官
    • 曾祖父の兄:辛達理(または新達理) は、高麗佐領兼内務府三旗火器営総管を務め、内務府正黄旗包衣第四参領配下の第二高麗佐領の初代佐領であった(国初に編成、『欽定八旗通志』に見える)。
      • 曾祖父の甥(辛達理の子):胡住(二等侍衛)・花柱(または花住、員外郎) - いずれもこの正黄旗包衣第四参領第二高麗佐領を世襲した。
        • 曾祖父の大甥:常明(父は花柱) - 内務府正黄旗包衣第四参領第一高麗佐領の初代佐領(康熙34年〈1695〉に分立、『欽定八旗通志』記載)。領侍衛内大臣・内務府総管を務め、雲騎尉を授けられ、恩賜による祭葬を受け、諡号は「愨勤」。
          • 曾祖父の大甥の娘:金氏 - 怡僖親王弘暁に側福晋として嫁いだ。「金氏は満洲旗に属する高麗系の一姓で……新達理は正黄旗包衣人で、世居は義州地方、天聡元年に子弟を率いて投帰した」と(『八旗満洲氏族通譜』巻72)に記される。
    • 曾祖父の兄:音達理(または尹達礼) - 内務府正黄旗包衣第四参領第二高麗佐領を襲職。
    • 曾祖父の弟:季達理 - 護軍校として福建出征の際に戦死し、雲騎尉を贈られた。
      • 祖父:尚明
        • 父:三宝(または三保) - 内務府正黄旗包衣第四参領第二高麗佐領。長蘆塩政、武備院卿兼佐領、上駟院卿を歴任。
        • 兄:タクトゥ(塔克図) - 侍衛内大臣で、正黄旗包衣第四参領第一高麗佐領を務めたことがある。
        • 兄:金輝 - は正黄旗包衣第四参領第二高麗佐領を襲い、兵部左侍郎を務めた。
        • 弟:金鼎 - 藍翎侍衛。
        • 妹:金佳氏 - 乾隆帝の淑嘉皇貴妃となり、履端親王永珹・儀慎親王永璇・成哲親王永瑆を生んだ。
        • 妹:金佳氏 - 内務府鑲黄旗満洲、乾隆戊午科挙人・哲爾徳氏雅図に嫁いだ(父は内務府員外郎・塞楞)。哲爾徳氏の始祖は「鑲黄旗包衣の始祖渾岱は長白山の人であり、その孫・塞楞は元員外郎、曾孫・雅図は現八品官、常寧は現筆帖式」と『八旗満洲氏族通譜』巻48にある。

子女

  • 子:縕布 - 内務府総管大臣、工部尚書、署理戸部尚書などを歴任[6]
  • 子:福泰 - 馬蘭鎮総兵兼内務府総管大臣。
  • 子:福英 - その娘・金佳氏は鑲黄旗蒙古、勤襄公・額爾徳特氏璧昌(父は乾隆辛卯科進士・簡勤公和瑛、孫は同治戊辰科進士錫珍)に嫁ぐ。
  • 子:福徳 - その娘・金佳氏は、追封怡親王・綿標(父は怡恭親王永琅、祖父は怡僖親王弘暁)に嫁ぐ。
  • 子:福昌 - 知府。子の椿齢の娘で、孫の金佳氏は、内務府鑲黄旗漢軍、道光戊子科挙人・馮氏興霖に嫁いだ(兄は嘉慶己卯貢士・興榮、父は嘉慶4年己未科進士・象会、高祖は文肅公・英廉)。
  • 娘:金佳氏 - 内務府正白旗漢軍・李海慶(父は乾隆丁巳科進士・李質穎)に嫁いだ。その子は奎齢(字・南村)で、妻は盧氏(父は鑲黄旗漢軍・江西塩法道の盧崧、祖父は陝西・湖北巡撫 盧焯)。孫の豊安は道光乙巳恩科進士。曾孫女の李氏は、内務府漢軍正白旗尚承澤(父は道光戊戌科進士・延恒、嫡堂姉は正藍旗漢軍・光緒2年丙子恩科進士胡俊章の息子の嫁)と内務府満洲鑲黄旗舒穆魯氏裕祬(兄は光緒2年丙子恩科進士 裕祥)にそれぞれ嫁いだ。

逸話

  • 金簡は詩作を好んだが、その作品のほとんどは後世に伝わっていない[6]。ただし、鉄保が編集した『熙朝雅頌集』103巻には、金簡の詩作が二十首収録されている[1]
  • 『四庫全書』の編纂の際、金簡はナツメの木による活字套版(スタンプ式の活字版)の印刷方式を採用し、『四庫全書』の編纂にかかる費用を大幅に節約した[6]
  • 現在、金簡に関連する文物として〈天章演範寶典福書冊〉が現存しており、国立故宮博物院に収蔵されている。これは1790年、万寿八旬大慶(乾隆帝80歳祝賀)のために編まれた御製句作品である。

注釈

  1. 清史稿』には誤って「內務府漢軍」と記されている。
  2. 「新達理」とも表記される。
  3. 「吏部尚書・金簡は多年にわたり職務に励み、勤勉慎重であった。以前、病気と聞き、折々に侍衛らを遣わして見舞わせ、さらに御医を派遣して診察させた。また、人参一斤を下賜し、これを服して体力を補い、早く快癒することを望んだところであった。いま、訃報に接し、まことに痛惜に堪えない。ついては、経被(棺に覆う絹布)を賞賜し、終わりを飾る典礼とせよ。また、皇孫・綿懃に侍衛十名を伴わせ、弔問に赴かせることとする。その他、受けるべき恤典(恩恵・追贈の礼)は、当該部において例に照らして詳しく奏上せよ。」

出典

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