鈴木信重 From Wikipedia, the free encyclopedia 鈴木 信重(生没年不詳)[1]は戦国時代の武将。三河鈴木氏の支流・足助鈴木氏の鈴木重直の子、母は松平清康の妹・久[1]。鈴木康重の父。定重・重武・伊直の兄。通称、喜三郎[1]。越後守・兵庫頭を称する[1]。 生涯 足助城主・鈴木重直の子として生まれる。 天文23年(1554年)今川氏の馬場幸家・堀越義久に3500余騎で攻められたが、父・重直は防戦することができず、信重を人質にして今川氏に降った[2]。 弘治元年(1555年)9月、信重は美濃国の遠山氏と東広瀬城主三宅高貞と共に小渡城を築いて今川氏に反旗をひるがえすが、今川方の原田三郎衛門尉・簗瀬九郎左衛門尉ら阿摺衆に撃退された[3]。(三河忩劇) 弘治2年(1556年)、鈴木伊賀守(康重か)が守る武節城に武田方の下条信氏が攻めるが、城から鈴木兵庫(信重か)と名乗る者がいたという[4]。 永禄7年(1564年)10月6日、徳川家康が3000余騎でもって足助を攻めると、父・重直は信重を人質として降り、一族の小原城主鈴木重愛と共に石川数正の組に配された。重直は重愛と同一行動を取っており、「足助衆」とか「足助小原衆」と呼ばれていたようである[5]。 『言継卿記』の元亀2年(1571年)4月10日条に、「武家御足軽鈴木、、、明後日三州へ下向云々」とあり、この鈴木について、「三川松平和泉守弟也」とある[6]。 同2年(1571年)4月15日、武田信玄・勝頼父子は足助城を攻め、重直・信重は城を捨てて19日に岡崎へ退いた。信玄は下条信氏を城代として守らせた。足助城落城に伴い、勢力下にあった浅谷・阿摺・八桑、松平方の大沼・田代も簡単に崩れ去った[7]。 元亀4年(1573年)、松平信康が武田方の足助城・武節城を陥落させると、足助には父・重直が復帰した[7]。 某年足助において死去。 脚注 1 2 3 4 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 Related Articles