鈴木康重 From Wikipedia, the free encyclopedia 鈴木 康重(生年不詳~慶長6年8月13日?(1601年7月16日)[1]は、戦国時代・江戸時代初期の武将。三河鈴木氏の支流・足助鈴木氏の鈴木信重の子。子に小里光親の室[2]。通称、喜三郎[3]。伊賀守・越後守と称する[3]。別名、重次・重時・重域・乗域[3]。 生涯 足助城主・鈴木信重の子として生まれる。 弘治2年(1556年)、鈴木伊賀守(康重か)が守る武節城に武田方の下条信氏が攻めるが、城から鈴木兵庫(信重か)と名乗る者がいたという[4]。 天正9年(1581年)3月22日、武田勝頼方の高天神城を包囲した松平勢に対して打って出、二つに分かれた一隊は石川康通と足助、小原衆が守る龍ヶ谷に切り込んだが、この時松平勢の上げた首級688級の中、138級を鈴木越後守重次(康重)・鈴木越中守(重愛)が上げた[5]。 天正10年(1582年)3月15日、松平真乗が亡くなると、その次男・真次を養育したという[6]。 同年8月12日、下条城主・下条頼安が飯田に立てこもることになり、康重は家康の命によって奥平信昌と共に頼安の援軍に赴くことになった[5]。 天正12年(1584年)3月19日、家康は康重に美濃の恵那・土岐二郡を与える書状を出している[1]。 天正18年(1590年)8月10日、家康が関東へ移封されるのに従った康重は、入国直後、家康の下を去って浪人をしたと伝えられている。その理由については、康重は上総国大多喜城主10万石となった本多忠勝の与力として1万石を宛行われる旨を言い渡されたので、それを不服として家康の下を去ったという[1]。 康重は各地を流浪の後、美濃の岩村城主松平家乗が近親であることから、岩村に寄食して慶長6年(1601年)8月13日に病死したと伝えられている[1]。 脚注 1 2 3 4 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 3 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 1 2 “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 ↑ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2026年5月1日閲覧。 Related Articles