松平真次
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天正5年(1577年)大給松平家5代松平真乗の次男として三河国大給城で生まれた。なお真次の出生時、父はすでに戦死していた。天正18年(1590年)徳川家が関東に移封されると兄の松平家乗は上野国那波藩主となる。慶長元年(1596年)には兄・家乗は従五位下・和泉守に叙任された。当時の徳川家では諸大夫は10人のみであり大給松平家の家格の高さがうかがえる[1]。
慶長2年(1597年)4月武蔵、上野両国の賊徒の首長13人が徒党して上野国飯塚に楯籠る。真次、家臣を率いて討伐に向かい、自ら其人をとらえ、その際は家臣等討ち取り、また生け捕りにする。真次は齢20にして武勇を轟かせる事となった[1]。
慶長19年(1614年)駿府に参上し大御所徳川家康に仕える旨を申し上げたところ、家康の仰旨により江戸に下り真次の三従弟にあたる徳川秀忠附となり、この冬の大坂の陣でも秀忠に供奉した。元和元年(1615年)夏の陣では5月7日の戦いにて首級を獲て、なおも進み三之丸に乗り入れて敵に槍をつけ首をとって引かす。その時、手負の戸田重宗が窮地に立たされるのを見て、真次は馬を馳せて敵の首をつきふせ、残る敵を追い払って重宗を助けて帰り、直ちに御備先に参上して供奉した。後、岡山の御陣営にて酒井忠世、本多正信について首実検を行い、その戦功をしるされた[1]。
同年、大坂の陣における功によって上野国内から采地1000石を賜い、従五位下に叙される。寛永4年(1627年)大番頭に進み2000石を加えられる。この時加増分を上野国内から与えられるところを真次、先祖の旧領を望み、三河国加茂郡大給3000石へ加増移封となった。寛永12年(1635年)12月14日には上総国において4000石を加賜され、のち4000石は三河国加茂郡足助、額田郡奥殿にうつされ都合7000石の旗本となった。寛永20年(1643年)職を辞し、正保3年(1646年)に卒去。享年70[1]。