1849年、生まれる。父は鈴木良右衛門。陸軍奉行並支配鈴木良右衛門の名前が当時の文書に見受けられる。
幕末には徳川家に仕えた。鈴木家代々の墓は新宿区の誓閑寺にあり、良光と妻の雅もそこに葬られたことから(後に改葬)、江戸の生まれで慶喜の駿府入りにより後の静岡藩所属と思われる。
父と共に鳥羽伏見の戦いに参戦し、全国を転戦した後に五稜郭に立て籠もるが、良光は榎本武揚の説得により降伏する。良右衛門は降伏を良しとせず、北方領土方面に逃れて戻ることはなかった。
明治4年12月(1871年)、陸軍に入隊し、大阪鎮台歩兵第九連隊に所属した。明治10年(1877年)、歩兵第9連隊第二大隊長心得(大尉)として西南戦争に出征した 。
同年2月27日、別働第一旅団へ編入され九州へ出征。2月28日に摂津国兵庫港(現・神戸港)を出帆し、3月6日肥後国山本郡木葉駅に到着。以後、田原坂の戦い、原倉村戦闘(3月12日)、3月19日から21日にかけての戦闘、吉次・立岩戦闘(3月23日から30日)、吉次峠攻略(4月1日)などに従軍した。
戦功により、同年5月4日付で少佐に昇進した。
明治11年(1878年)、静岡県士族加藤信盛の娘、加藤雅と結婚。
明治13年(1880年)9月13日付で中部監軍部へ異動。戸山学校教官となる。
明治14年(1881年)6月29日付で第2軍管第4師管後備軍司令官を拝命。
明治16年(1883年)1月には第2軍管への出張徴兵使を命ぜられた。
同年6月27日補第五管第12師管後備軍司令官となるも、同年10月、療養願を提出し、10月20日付で免職。12月5日、任地先の仙台において死去した。
皇居三の丸尚蔵館収蔵、明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」に写真が残っている。