鈴木雅 (看護師)
日本の看護師 (1857–1940)
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経歴・人物
旧姓は加藤。父は幕臣で静岡県士族加藤信盛(1834年〈天保5年〉- 1902年〈明治35年〉12月22日没)、母は御留守居組田邉兵三郎の長女とよ(1839年〈天保10年10月7日〉- 1915年〈大正4年〉2月10日没)。雅は長女で他に次女てる(1867年〈慶應3年6月21日〉-昭和11年2月6日没)、長男保太郎(1869年〈明治2年4月1日〉 - 1924年〈大正13年〉5月24日没)がいる。親類書では加藤千三郎(加藤信盛)が「倅、加藤雅太郎」と書いたものを二重線で抹消して「保太郎」と書き直してあることから、「まさ」ではなく、「雅」が正しいようだ。
加藤家の先祖代々の墓は浅草の成喜院にあったが、関東大震災と東京爆撃で墓地が倒壊して寺には記録が残っていない。加藤家が堀を築いたことから、そこは加藤堀と呼ばれていたと伝わってるが場所は不明。三河以来の武士で御家人であったが、幕末の動乱で出世して旗本大番格[3]となった。
千三郎は後に鳥羽・伏見の戦いで戦死した京都見廻組浅川権三郎と上総国市原郡八幡村の医師岡野養庵の娘との子で、安政6年10月(1859年)に加藤銀次郎の養子になったことから、安政4年12月(1858年)生まれの雅は駒込四軒寺町の浅川家で生まれ、小石川片町の加藤家で育ったと思われる。
千三郎は天狗党の乱の追討を初陣として鳥羽・伏見の戦いに参戦後、紀州から船で江戸へ戻ったが、江原鋳三郎(後の江原素六)率いる撒兵隊軽兵第一大隊の差図役頭取・改役として市川・船橋戦争に参戦し[4]、最後は五稜郭に立て籠り生き残っている。 明治2年11月(1869年)帰農二等勤番組、明治3年(1870年)浜松勤番組の世話役、明治5年3月(1872年)に第七十三区戸長となって明治6年3月(1873年)まで勤めた。江戸から静岡に移って、この時期までは雅も浜松にいた可能性が高い。
1876年(明治9年)から1877年(明治10年)にかけてフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)に学ぶ[5]。 1878年(明治11年)に結婚。夫は西南戦争にて大阪鎮台歩兵第九連隊第二大隊大隊長を勤めた鈴木良光歩兵少佐である。
第九連隊の京都分隊伏見連隊長として勤めた夫とともに大津、京都で新婚時代を過ごす。1880年(明治13年)、良光が戸山学校教官となり上京、1881年(明治14年)、仙台鎮台第ニ軍管第四師管後備軍司令官拝命により仙台へ移った。
良光はこの仙台にて1883年(明治16年)病没。歩兵少佐従六位勲四等[6]。雅は大関和と同様シングルマザーとなり、二人の子を抱えて上京した[7]。
雅は共立女学校(現在の横浜共立学園)に学んだとされるも一次史料は存在しない。また、同校に在籍したとされる期間[8]には京都や仙台に居住しており、この間に一男一女を出産している。当時同校は全寮制で創立者のひとりであるルイーズ・ピアソンが英語を話せるだけでなく、英文学・天文・数学・物理・科学などを自ら担当し、化学の実験には月2回東京の開成学校からE・W・クラークを招いたほど熱心な教科指導が行われていた。そのためアメリカで学位を取り女医になった者が何人もいた。 1887年(明治20年)、同窓の桜井ちかが創設した桜井女学校附属看護婦養成所に1期生として入学し大関和と出会い、アグネス・ヴェッチから看護学を学ぶ。
帝国大学医科大学附属第一医院における内科の看護婦取締役(看護婦長)となった。 フェリスで覚えた英語を役立て、その頃多かった外国人医師の通訳として活躍した。時代の先端を行く彼女は洋服を着てかの有名な鹿鳴館にも通った、と伝わっている[9]。
1891年(明治24年)東京本郷に慈善看護婦会(のちの東京看護婦会)を創設[10]。派出看護婦会を設立して在宅の病人の看護のための看護派出事業を行ったほか、1896年(明治29年)には東京看護婦講習所を開いて派出看護婦の養成に貢献した[11]。また、日本最初の女医荻野吟子らと大日本婦人衛生会を組織し『婦人衛生雑誌』を刊行するなどして、衛生に関する知識教養の普及・啓発にも努めた[1]。
派出看護の仕事を大関和に引き継いで看護の世界から離れていた雅は、息子良一を連れて東京を離れた。新婚時代の思い出のある京都を移転先に選び、妹家族と弟家族も京都へ呼び寄せた。保太郎は営林署の技師で東京本省での勤務の他、林業の盛んな東北各地での勤務を主とした後に台湾嘉義県に赴任したが、マラリアに罹って体を壊し東京へ戻っていた。保太郎一家は大正9年に京都は新京極の中之町へ、てる一家は大正11年に新京極の裏町に移り住んだ。
雅は近くに住む保太郎の三女を預かり、てる達と共に暮らした。女の子を育ててみたかった、とのことであった。毎日をきびしく、稽古ごと特に、謡・仕舞・盆景・茶道・縫物編物などをした、と後にこの姪が書き残している[12]。保太郎が大正13年5月に亡くなり、三女は保太郎の妻の元へ戻った。
やがて雅は良一と共に京都を離れて、娘美津と孫の暮らす沼津の千本へと転居した。美津は長岡藩士族の洋画家安田稔との間に一子をもうけていたが、共に嫡子であった為に籍は入れず同居はしなかった。 かねてより療養中であった良一が昭和13年に亡くなったのを期に、美津達と同居した。昭和15年、孫康夫の出征を見送った後に死去する。鈴木家代々の墓があり、夫良光の眠る誓閑寺に葬られた。
