銀雀山漢簡
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出土遺物
1972年、臨沂県城の南に位置する銀雀山で銀雀山1号墓と銀雀山2号墓が発掘された。いずれも1棺1槨をそなえる長方形の竪穴墓であった。1号墓からは半両銭35枚と三銖銭1枚、さらに漆塗りの耳杯2点が出土した。耳杯の裏に「司馬」の2字が刻まれていた。2号墓からは肩の部分に「召氏十斗」の4字が刻まれた陶罐が出土している。1号墓から出土した竹簡は4942枚で、簡1枚の長さは27.6cmであった。文字数は簡ごとに異なり、多いものは40字以上書かれていた。整理した結果、これらの竹簡は、『孫子兵法』・『孫臏兵法』・『六韜』・『尉繚子』・『管子』・『晏子』・『墨子』などであった[2]。2号墓から出土した竹簡は32枚で、内容は『漢元光元年暦譜』であった[1]。
竹簡孫子
竹簡300枚以上を数える『孫子兵法』は、今本の『孫子』13篇との対応を見出すことができ、今本『孫子』が孫武の著作であることが証明された。さらには「呉問」・「黄帝伐赤帝」など5篇の佚文も発見された。『孫臏兵法』は竹簡440枚以上に書かれた11000字以上の記載にあたると考えられる。そのうち間違いなく『孫臏兵法』であると認められる15篇は『孫子兵法』を祖述するにとどまらず、明らかに面目を一新する内容となっている[3]。
六韜
『六韜』は武経七書の一つに数えられる兵法書であるが、『竹簡孫子』と共に銀雀山墓で墓の内部から発見された。前漢創業の功臣である軍師の張良が黄石公から授かったという伝説があるが、この出土によって、紀元前2世紀頃に成立していたと考えられるようになった。
尉繚子
『尉繚子』も古代の兵法書であるが、清に姚際恒が偽書と断定し、それが一般にも知れ渡っていた。しかし、この出土で写本が発見され、戦国時代から秦に成立したと見られるようになった。写本と後代に伝えられたものを比べると、かなりの加筆がされていることが判明している。
