銭徽
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貞元元年(785年)、進士に及第し、穀城県令の王郢の客となった。のちに山南東道節度使の樊沢の下で掌書記をつとめた。また宣歙観察使の崔衍に召し出された。元和元年(806年)、入朝して左補闕に任じられた。祠部員外郎となり、翰林学士をつとめた。元和6年(811年)、祠部郎中・知制誥に進んだ。元和8年(813年)、司封郎中に転じ、緋魚袋を賜った。元和9年(814年)、中書舎人に任じられた。元和11年(816年)、官軍が淮西の呉元済を討つにあたって憲宗が意見を求めると、銭徽は出兵が連年にわたって、糧食を補給する力が尽きているとして、撤兵するよう上疏した。憲宗に喜ばれず、銭徽は翰林学士の職から罷免され、太子右庶子に転じ、虢州刺史として出向した[3][4]。
長慶元年(821年)、銭徽は礼部侍郎となった。段文昌が楊渾之を進士に及第させるよう求め、また李紳が周漢賓を進士に及第させるよう請託してきた。銭徽はかれらを及第させず、李宗閔の子弟を及第させた。段文昌と李紳は激怒した。ほどなく銭徽は江州刺史に左遷された[5][6]。
宝暦元年(825年)、銭徽は華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使に転じた。宝暦3年(827年)、文宗が即位すると、銭徽は召還されて尚書左丞に任じられた。大和元年(同年)12月、再び華州刺史として出向した。大和2年(828年)秋、病のため吏部尚書として致仕した。大和3年(829年)3月、死去した。享年は75[7][8]。