鍾離眜

秦末から前漢初期にかけての武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

鍾離 眜 / 鍾離 昩(しょうり ばつ[1]、? - 紀元前201年)は、中国末から前漢初期にかけての武将。『史記』巻92・淮陰侯列伝や『漢書』韓信伝によれば、鍾離眜は伊廬の人である[2]

生涯

鍾離眜は秦末、項梁項羽の挙兵に参加し、秦滅亡後の楚漢戦争においても項羽の部将として活躍した。しかし、劉邦陣営に鞍替えした陳平の計略により、鍾離眜は范増とともに項羽に疎んじられるようになった。陳平の発言では、范増・龍且周殷と共に項羽の「骨鯁之臣(諫言も辞さない剛直な忠臣)」に挙げられており、高い評価を得ていたと思われる。

垓下の戦いあたりに、季布とともに一兵卒に変装して項羽の陣営から離脱した。項羽の死後、鍾離眜は同郷で旧友の韓信のもとに身を寄せた。帝位に即いた劉邦は韓信を楚王に封じたが、鍾離眜が楚にいることを知った劉邦は、鍾離眜を逮捕する旨楚に詔を下した。劉邦は楚漢戦争で自分に辛酸を嘗めさせた鍾離眜に、かねてから怨みを抱いていたのである。

さらに、韓信の謀反を讒言する者があった。劉邦は陳平の計に従い、南のかた雲夢に巡狩すると称して陳に諸侯を集め、韓信を襲おうとした。韓信は劉邦に拝謁して二心なきことを自ら弁じようとしたが、逮捕を恐れて劉邦に会わずにいた。

そこで、ある人が韓信に「鍾離眜を斬れば許されるでしょう」と説き、韓信はこの策を採った。これを知った鍾離眜は、「漢が楚を攻撃しないのは、私が貴公に身を寄せているからだ。もし貴公が私を捕えて漢に媚びようとするならば、私は今日にでも死ぬが、貴公もいずれ滅びるであろう」と言い、「貴公は有徳の人ではない」と韓信を罵って自刎した。

韓信は鍾離眜の首級を持って陳で劉邦に拝謁したが、逮捕を免れることはかなわず、淮陰侯に降格された。後に陳豨の反乱に呼応して、長安で反乱を起こし政権を奪おうと謀ったが露見して殺害された。

子孫

新唐書』表15上・宰相世系5上によれば、鍾離眜には長子の発・次子の接の2子があった。発は九江に住み、鍾離氏を名乗り続けた。彼の子孫が三国時代の鍾離牧鍾離斐陸機の『弁亡論』にのみ登場)である。他方、接は潁川長社に住み鍾氏に改姓した。また『新唐書』は鍾氏の系譜として、鍾接の次に後漢の鍾皓・鍾迪、三国時代鍾繇鍾会らを列挙している。彼等はみな潁川長社の出身である。ただ、接から皓までの間に何代の隔たりがあるかは記載していない。

蒲将軍同一人物説

『史記』には、項羽の部将として「蒲将軍」なる人物の事績が散見されるが、佐竹靖彦はこの蒲将軍が鍾離眜と同一人物ではないかと指摘する(前述『劉邦』、271頁)。その理由として、鍾離眜は鍾離という都市(寿春から淮水を下ること150キロ、当時の懐王の楚都である盱眙と寿春との中間点にあった)の出身と思われること、さらに鍾離の北70キロにある蒲姑陂という地名が蒲将軍の名の由来である可能性があることを挙げる。なおこのように解する場合には、「項王の亡将鍾離眜の家は伊廬にある」とする『史記』・『漢書』との整合性が問題となる。

脚注

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