鎮の姓と出身郡名が不明なことから、鎮の出自について長く論争が続いている。鎮の出自が論争となるのは、鎮が「幽州刺史」などの官職をもつため、鎮が高句麗人であるならば、高句麗が4世紀末から5世紀はじめにかけて一時的であるにせよ、中国幽州を占領していたと解釈することができ、また高句麗が4世紀末から5世紀はじめにかけて全国的に郡県制を施行していたとする主張も可能となる[7]。このことから、「高句麗国家の偉大性」、および高句麗における中国の影響を過小化する北朝鮮は、鎮は高句麗人と強く主張している。
北朝鮮の研究者である朱栄憲(朝鮮語: 주영헌)、朴晋煜(朝鮮語: 박진욱)などは鎮は高句麗人と主張しており、根拠は以下である[1]。
- 鎮の出身地である新都県は平安北道博川郡、雲田郡に比定される。
- 高句麗による中国占領時に郡県制で編成されている中国の行政体系を移植し、高句麗も4世紀末から5世紀はじめにかけて全国的に郡県制が施行された。
- 徳興里古墳の構造・壁画は、漢人や鮮卑の墓制とは異なる典型的な高句麗古墳である。
- 鎮が統治した幽州13郡75県は中国の幽州とは構成が異なるが、これは、前燕滅亡後の中国東北部混乱時、高句麗が中国の幽州を占領し、370年から376年にかけ、高句麗の幽州として一時的に統治した結果である。
- 鎮が歴任した官職はすべて高句麗の官職である。
武田幸男、金元龍(ソウル大学)、孔錫亀(朝鮮語: 공석구、ハンバッ大学)、林起煥(朝鮮語: 임기환、ソウル大学)、劉永智(吉林省社会科学院)は、鎮=高句麗人を批判、鎮は中国人と反論している[1]。
- 鎮の出身地である新都県は、中国河北安平郡の属県とみるのが妥当である。複姓であることを踏まえると鮮卑族である可能性もある。
門田誠一は、「本来、高句麗社会には存在しなかったと考えられる角杯という外来器物が最初に描かれた徳興里古墳によって、徳興里古墳の墓主であるの『鎮』などによって、外来器物や文化が将来された」と述べている[4]。