長浜藤夫
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1910年(明治43年)11月27日、石川県金沢市千日町に生まれる[1][2][3]。旧制麻布中学校を経て東京高等造園学校(1942年消滅、東京農業大学造園学科の前身)を卒業[1]。
1931年(昭和6年)、新興劇協会に入り、久保栄(1900年 - 1958年)が演出を務めた舞台『青酸加里』で初舞台を踏み、新劇俳優として活躍する[1][2][3]。1934年(昭和9年)、山田耕筰(1886年 - 1965年)が主宰する楽劇金曜会、1937年(昭和11年)には新築地劇団、1942年(昭和17年)には瑞穂劇団へ転々とした[1][2][3]。この間、映画にも出演しており、初出演作品は1935年(昭和10年)公開の成瀬巳喜男監督映画『妻よ薔薇のやうに』である[1][2][3]。また、戦中から戦後にかけては東宝移動演劇隊(後の東宝演劇部)に所属しており、1947年(昭和22年)には東宝と専属契約を結び、黒澤明監督の『生きる』などに出演した[1][2][3]。
1950年(昭和25年)、東宝争議解決後は夏川静江、石黒達也等と共に東京ラジオ・グループを結成[1]。後にNHKと契約し、その傍らで1958年(昭和33年)に放映された『バス通り裏』などのテレビドラマにも多く出演した[1][2]。1968年(昭和43年)、劇団民藝に所属し、『家族展覧会』などの舞台に出演した[1][2][3]。ひょうきんな味わいを持つ脇役として知られ、以後もテレビドラマや映画にも積極的に出演した。