長等神社
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歴史
天智天皇が天智天皇6年(667年)に近江大津宮に遷都した際、長等山の岩座谷に建速須佐之男大神を祀ったのが当社の始まりであるという[1]。
貞観2年(860年)2月、前年に園城寺初代長吏に就任した円珍が、園城寺の鎮守として当社に山王権現を合わせて祀り、園城寺の鎮守社とし、社名を延暦寺の鎮守社である日吉大社に対応して新日吉社、またの名を新宮社とした[1]。
清和天皇の時初めて官幣を受け、社殿修復等本宮である日吉大社に準じて上奏を経る事とされた[2]。
天喜2年(1054年)4月、庶民も参詣できるようにと園城寺の明尊大僧正によって長等山上から現在地に移され、以来この地は神出と呼ばれるようになる[1][2]。
永保元年(1081年)に白河天皇より官符が下され、大津の住人によって日吉祭が当社で行われるようになると、園城寺の衆徒もこの祭に加勢した。以降、当社は日吉大社と対比されるほどとなったが、延暦寺と園城寺双方の衆徒による闘争が繰り返され、当社も園城寺とともに度々その兵火にかかって焼失した[2]。鎌倉幕府が宇都宮頼綱(蓮生)に命じ、当社の本殿・拝殿・楼門等が再興されたが、再び灰燼となった[2]。
南北朝時代の建武3年(1336年)に戦乱に巻き込まれて社殿が焼失するが、暦応3年(1340年)に室町幕府将軍足利尊氏により再建される。十二の廻廊や楼門、その他多くの建物があり湖南の大社といわれ、皇室を始め武将や多くの民衆から深く崇敬され隆盛をきわめた[1]。
寛文11年(1671年)に社殿が大修理された。また永保、天明、寛政の年代に亘って社殿が修理されている[2]。
明治時代に入ると神仏分離の流れの中で園城寺から独立し、1876年(明治9年)に村社に列せられている[2]。
1883年(明治16年)に名称を長等神社に改めると[1]、同年に郷社、1901年(明治34年)1月には県社に昇格している[2]。
境内
摂末社
文化財
大津市指定有形文化財
- 楼門
祭事
- 例祭 - 5月5日
- 馬神神社例祭 - 10月17日
所在地
- 滋賀県大津市三井寺町4-1
