長野原城

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別名 箱岩城
城郭構造 不明
築城主 不明
築城年 不明
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長野原城
群馬県
別名 箱岩城
城郭構造 不明
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 羽尾氏湯本善太夫湯本三郎右衛門武田氏真田氏配下)
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、竪堀、堀切
指定文化財 長野原町指定史跡[1]
位置 北緯36度33分13.5秒 東経138度38分27.2秒 / 北緯36.553750度 東経138.640889度 / 36.553750; 138.640889座標: 北緯36度33分13.5秒 東経138度38分27.2秒 / 北緯36.553750度 東経138.640889度 / 36.553750; 138.640889
地図
長野原城の位置(群馬県内)
長野原城
長野原城
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長野原城(ながのはらじょう)は、群馬県吾妻郡長野原町上野国吾妻郡長野原)にあった日本の城。別名箱岩城。戦国期では在地の国衆・羽尾氏であり、羽尾氏の没落後は武田氏真田氏の持城となった。1990年(平成2年)3月27日付で長野原町指定史跡[1]

築城時期や経緯は不明。長野原地域を含む吾妻郡西部の大半を支配していた羽根尾城主・羽尾氏の城とされる。

永禄4年(1561年)に武田信玄が西上野に侵攻すると、羽尾道雲をはじめ吾妻郡の国衆である鎌原重澄斎藤憲広は武田氏に従属する。しかし鎌原氏と羽尾氏・吾妻斎藤氏間で所領問題を巡り対立し、翌5年(1562年)に武田氏の援軍を得た鎌原氏によって羽尾道雲は所領を追われた。

その後、長野原城には武田方の城将として常田新六郎(隆永?)湯本善太夫が入ったが、『加沢記』によると翌6年(1563年)9月に羽尾氏を後援する斎藤憲広によって長野原城を攻められ、常田新六郎は戦死したという[2][3]。この時長野原城には羽尾道雲が入り、一時的に羽根尾領を奪還したとみられる[4]

しかし同年12月には武田方の真田幸綱によって斎藤憲広の岩櫃城が攻略され、同時期に羽尾氏も没落したとみられる[4]

その後長野原城は再び湯本善太夫が入り、武田氏の属城となった。善太夫は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死し、その跡を甥の三郎右衛門が継いだ。三郎右衛門は同10年(1582年)の武田氏滅亡後は真田昌幸に仕え、引き続き長野原城や羽根尾城を守っている。

天正10年(1582年)以降の当城の動向に関する史料はなく、廃城年は不明という[1]

立地・構造

脚注

参考文献

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