長野英麿
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1920年(大正9年)2月、東京市渋谷区千駄ヶ谷で帝国陸軍歩兵第80連隊隊長・長野幾磨[注釈 1]と嶋子の三男として生まれる。府立第四中学校の在学中にサン・テグジュペリに傾倒。「南方郵便機」や「夜間飛行」などを愛読した。1937年(昭和12年)4月に早稲田第一高等学院へ入学。この時日本学生航空連盟に入り、始めて飛行機に乗った英麿は第一高等学院を中退し[4]、同年6月1日、第2回逓信省航空局指定練習生として同期8名と共に日本飛行学校に入校した[5]。伏見善一主任教官のもとで丸8ヶ月、およそ90時間の飛行訓練[注釈 2]を経て翌年1月末日に卒業。二等飛行機操縦士の免許を交付された。
その後、1938年(昭和13年)6月に開設された仙台地方航空機乗員養成所[注釈 3]で2年半教官を務め、1940年(昭和15年)10月から半年間は岐阜陸軍飛行学校で教育を受けた。翌1941年(昭和16年)3月、松戸中央航空機乗員養成所の第2期生として入所。より難易度の高い大型機と夜間飛行の訓練などを約10ヶ月で130時間ほど積み、同年12月に卒業。同月大日本航空に入社すると副操縦士を務める[2]。
1942年(昭和17年)春にはサイゴン駐在となり、三菱MC-20を操縦してバンコクやラングーン、シンガポールにボルネオなどを飛び回った。翌年1月、機長昇格のため福岡支所に移り、支所長・宮本正義のもとで訓練。4月、機長に昇格すると福岡ー北京間の軍用定期航路勤務に就いた。1943年(昭和18年)10月には宇都宮陸軍飛行場に転属となり、ジャヤプラへの空輸を任務としている[2]。
その後、1945年6月に編成された「猛」輸送隊員としてMC-20で兵員を運んでいたが、8月に南京からプノンペンに飛んだところで終戦を迎える。司令部から大日本航空社員の帰還輸送に当たるよう命を受け、台北までフライト。ここで英麿は負けるぐらいなら爆撃機で敵陣に突っ込もうと仲間と相談。キ67を取りに行った福岡市雁ノ巣の飛行場で大森正男支所長にその意思を告げた。その際、特攻の前にまず緑十字飛行に協力するよう諭され、その任で南京や上海へ行き来しているうちにもはや特攻する情勢ではないと理解する[6]。
1945年11月18日、GHQの指令で日本における民間航空の飛行は全面禁止となった。翌年、やはりGHQの命で逓信院電波局の中に航空保安部が新設される。英麿は当時保安課長だった大庭哲夫に誘われ、尾崎行良と共に総勢150名の保安部入り。同じく大庭の勧めで日米会話学院に通い英語力を磨いた[6]。
1951年(昭和26年)日本航空株式会社が設立。英麿は8月付けで入社し運航課長心得の役職に就いた。翌1952年(昭和27年)に会社は技量が優れてなおかつ英語が堪能な人員ということで英麿と糸永吉運2人のアメリカ派遣を決定。同時に航空庁からも4人が選ばれた[注釈 4]。4月3日、ノースウエスト航空の旅客機で6人は羽田を出発。オクラホマ州タルサのスパルタン航空学校で2ヶ月、次いでオクラホマシティにある民間航空委員会の訓練センターで学び、定期運送用操縦士(ATR)の受験資格を得て8月末に帰国した。計器着陸方式(ILS)を習得して会社に戻った英麿はパイロット職に専念するため1953年(昭和28年)4月に運航課長を辞任。外国人機長の隣に座って慣熟飛行訓練を続けた。同年12月、ダグラス式DC-4機の副機長資格を得ると、1955年(昭和30年)2月24日に機長昇格[8][注釈 5]。
1967年(昭和42年)7月には航務本部運航部長に就任。その他、運航基準部長など歴任しながら機長として飛び続け、1980年(昭和55年)2月のフライトを最後に現役を引退した[10]。1982年(昭和57年)12月、宇宙航空青少年団を設立。その後も日本航空の常勤顧問をはじめ、IATA他多数の機関で委員等を務めつつ積極的に国内外で講演を続け、1993年3月に没する。同年11月にクアラルンプールで開かれたFSF(英語版)の年次大会で日本人として初めて最高賞(The Laura, Taber, Barbour Award)を贈られた[11]。
英麿は東京女子大学体育科卒業の貞子(1934年生)と結婚。長男・英樹(1960年生)と長女・由美(1961年生)を授かっている[4]。英樹は後に日貿商事社長を務めた[注釈 6]。
脚注
注釈
- ↑ 父・幾磨(いくま、1876-1926年)は福岡県士族。陸軍大学校20期(1908年卒業)首席。1922年11月、陸軍少将となり、1924年2月に歩兵第14旅団長。同年12月予備役となる。従四位勲三等功五級[3]。
- ↑ 直接の担当教官は柴田実。入校後はまずアンリオ式HD-14型(乙式一型)練習機、次いでアブロ式504K型、サルムソン2A2型などで訓練を重ねた。ちなみに日本学生航空連盟で初めて乗った機体はデ・ハビランド式プス・モス型軽飛行機である[5]。
- ↑ 中尾純利や小川寛爾などを生み出した航空局陸海軍委託操縦生制度は1921年から1937年まで17年間続き、156名の飛行士を養成。1938年以降はこれに代わり航空機乗員養成所が各地に開設され、一層多くの養成が進められた[2]。
- ↑ 糸永吉運は英麿と同じく航空局から日本飛行学校へ委託された練習生の出身。歳は1つ上だが昭和13年度生なので英麿の1年後輩に当たる。航空庁から来たのは川田幸秋、木村正雄、西村淳、亀山忠直の4人[7]。
- ↑ 戦後、日本人で最初に副操縦士資格を取ったのは木村正雄で1953年8月4日。日本人として初の機長を務めたのは1954年11月2日、東京発福岡着305便穂高号の江島三郎。同便は副機長も木本栄司が務め、初の日本人のみによる運航となった[9]。
- ↑ 英麿の義兄・大蔵修が一橋大卒業後に勤めたシュリロ貿易。その同僚4人と1957年に創業し自ら社長も務めた会社が日貿商事[12]。系列に日貿産業(1960年設立)がある[13]。
出典
- ↑ 『航空運航システム研究会雑誌』7号、航空運航システム研究会、1990年12月、5-7頁。NDLJP:3262693/5。
- 1 2 3 4 物語 1982, pp. 160–161.
- ↑ 『長野幾磨』shirakaba.link。https://shirakaba.link/betula/%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%B9%BE%E7%A3%A8。2025年9月22日閲覧。
- 1 2 『東京紳士録』(昭和45年版)東京探偵社、1969年、882頁。NDLJP:3016748/473。
- 1 2 物語 1982, p. 164.
- 1 2 物語 1982, p. 172.
- ↑ 物語 1982, p. 184.
- ↑ 物語 1982, pp. 190–191.
- ↑ 山田智彦『日本航空の選択:輸送量・世界一の光と影』10号、光文社、1984年10月、43-44頁。NDLJP:12062556/24。
- ↑ 物語 1982, p. 203.
- ↑ 『航空運航システム研究会雑誌』10号、航空運航システム研究会、1994年1月、105頁。NDLJP:3262696/54。
- ↑ 坂上弘幸 編『一橋人脈譜』学風書院、1969年、396頁。NDLJP:12188810/211。
- ↑ 『日本会社録』(第9版)帝国地方行政学会、1974年、会社 279頁。NDLJP:11998620/1578。
参考文献
- 平木国夫『日本飛行機物語』 首都圏篇、冬樹社、1982年6月。 NCID BN10374283。