門司餓死事件
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2006年4月の事件
2006年4月21日、門司区中二十町の市営大里団地で母A(当時78歳)と長女B(当時49歳)がともに餓死しており、二女C(当時47歳)が衰弱しているのを近隣住民の119番通報を受けて駆けつけた救急隊員が発見した[1][6]。Cは衰弱が激しかったため、直ちに病院に搬送されたが、治療により一命を取り留めた[1][7]。司法解剖の結果やCの証言などから、Aの死因は食事中に餅を詰まらせたことによる事故死[7]、Bの死因は胃潰瘍と判明した[8][9][7]。
Aは1971年に大里団地に入居し、結婚してBとCを設けたが、1994年に夫が死亡[6]。1996年に身体障害者1級と診断され、北九州市から車椅子とベッドを支給されたが、生活保護受給申請は行っていなかった[6]。
Cは腰に持病を抱えて足が不自由であったため[6]、近隣住民が気遣っていたが、Cは「大丈夫です」などと周囲に対して気丈に振る舞っており、2005年9月に民生委員が訪問した際も「母は寝たきりで玄関まで来られません」と追い返した[6]。一方で事件が発覚する1年前から金銭的に困窮したため、まともな食事もできなくなり、次第に衰弱していった[6]。また、Aが前述の事故により死亡した後、Bは悪寒を訴えるなど急激に衰弱していき、2006年2月頃に死亡した[7]。
2006年5月の事件
2006年5月23日、関門海峡を間近に望む門司区の市営後楽町団地で、独り暮らしの男性D(当時56歳)がミイラ化して死亡しているのをDの知人が発見した[10][2][11][12]。司法解剖の結果、約4か月前に死亡していたことが判明し、直接の死因はうっ血性心不全とされたが、極度の栄養失調で、実質的な餓死だった[2]。
生前、Dは右足が不自由で[2]、4級の身体障害者手帳を所持していた[2]。Dは2005年8月まで仕事をしていたが、家賃を滞納していたため、9月28日に北九州市住宅供給公社の職員が訪れたところ、脱水症状で衰弱していたため、市役所から派遣されたケースワーカーと保健師が保護した[2][12]。保護された後、9月30日にDは門司区役所保護課に赴き、「お金がない。生活保護を受けたい」と生活保護受給を申請したが、保護課は市内に住むDの次男と連絡を取るように助言し、二男がパンなどをDに差し入れたことで事なきを得たため、申請を見送った[2][11][12]。
その後、12月6日にDは再度生活保護受給の申請のため[12]、二男と一緒に門司区役所保護課に赴き、「二男も余裕がなく援助できないと言っている。体も弱って働けないので生活保護を受けたい」と訴えたが、保護課は生活保護法に基づき、扶養義務に関する説明を行った上で市内在住の長男に援助を打診するよう求めた[2][11][12]。説明を受けてDは「考えてみる」と言って帰ったが、それ以降連絡はなかった[11]。
事件の背景
毎日新聞と読売新聞の報道によれば、北九州市は昭和前期に鉄鋼業などにより、人口が大変多く流入したが、その後エネルギー革命で隣接する筑豊地区にある筑豊炭田の炭鉱が閉鎖されたことにより、貧困層が増え、生活保護世帯も増加した[13][12][3][4][5]。北九州市は市財政が圧迫されることを防ぐ目的で、保護課では数値目標を決め、生活保護受理件数を抑えていた[12][3][4][5]。この施策は谷伍平から行なわれたが、1987年より就任した末吉興一によってさらに徹底されたものとなり、「ヤミの北九州方式」と呼ばれるようになっていた[14][12][3][4][5]。実際のところ交付税対象団体は地方負担分を補てんされるためこれは建前に過ぎず、生活保護への偏見によるところが大きいと推測できる[12]。