下関駅放火事件
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| 下関駅放火事件 | |
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焼失した下関駅東口駅舎跡地(右側)と下関乗務員センター(左)(2006年1月29日撮影) | |
| 場所 |
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| 座標 | 北緯33度57分1.46秒 東経130度55分23.1秒 / 北緯33.9504056度 東経130.923083度座標: 北緯33度57分1.46秒 東経130度55分23.1秒 / 北緯33.9504056度 東経130.923083度 |
| 日付 |
2006年1月7日 午前1時50分ごろ[2] (日本標準時) |
| 標的 | 西日本旅客鉄道下関駅東口駅舎[1] |
| 攻撃手段 | 放火[1] |
| 死亡者 | なし[1] |
| 負傷者 | なし[1] |
| 損害 | 東口駅舎が全焼・下関乗務員センターや出火元の倉庫など約4,000m2を焼損[3][4] |
| 犯人 | 無職の男性F(当時74歳)[1] |
| 動機 | 刑務所に戻るため[2] |
| 攻撃側人数 | 1人[1] |
| 対処 | 下関警察署がFを逮捕・山口地方検察庁が起訴[1][5] |
| 刑罰 | 懲役10年(第一審判決・控訴せず確定)[6][7] |
| 管轄 | |
下関駅放火事件(しものせきえき ほうかじけん)は、2006年(平成18年)1月7日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の下関駅東口駅舎などが放火により全焼した事件である[4]。
2006年(平成18年)1月7日午前1時50分ごろ、下関駅構内のプレハブ倉庫から出火、駅舎に延焼し、木造平屋建ての駅舎東口が全焼[8][9][2]。同建物(1942年建築)は特徴的な三角屋根を持ち、下関市のシンボル的な存在だった[9][4]。また下関乗務員センターや出火元の倉庫も全焼、焼失面積は延べ約4,000平方メートルに及んだ[8][4]。人的被害はなく、高架上にあるホームや線路、架線にも被害はなかった[3][9]。
同日、現場近くにいた無職の男性F(当時74歳)が現住建造物等放火容疑で下関警察署に逮捕された[9]。Fは当事件から5年前の2001年(平成13年)4月にも北九州市小倉北区で放火未遂事件を起こし逮捕されており、2005年(平成17年)12月30日に福岡刑務所を出たばかりだった[10][4]。Fは過去10回にわたって服役を繰り返してきた知的障害者、いわゆる「累犯障害者」であった[11][4]。出所した8日後に本事件を起こした[11]。
Fは身寄りがなく、出所後も警察に保護されるなどしていた[12]。仕事や住む場所もないまま行くあてもなくさまよっていたが、放火事件の前日、ついに手持ちの金銭が底をついたことから、逮捕・勾留されるために、福岡県北九州市内で万引きして自ら申し出、小倉北警察署に連れて行かれた[13]。事情聴取を受けたものの逮捕・勾留には至らず、留置場に入ることはできなかった[11]。福岡県警察は、区役所の窓口で生活保護の相談を勧めた[13][11]。
Fは北九州市の小倉北区役所に生活保護を申請しに行き、「刑務所から出てきたばかりで住むところがない」と言うと「住所がないと駄目だ」と相手にされず、そこで下関駅行きの切符を一枚と、山口県の下関市役所までの路線バス運賃190円を渡された(切符やバス代がもらえる仕組みは行旅人の記事を参照)[2][13]。Fは電車で下関駅まで行って夜まで駅で過ごしていたが、駅の営業時間終了により、山口県警察から駅の外に退去するように言われ、居場所を確保できなかった[13]。犯行の動機は「刑務所に戻りたかったから」と述べた[14][2]。1月27日、山口地検はFを山口地裁に起訴した[5]。
列車運行への影響
配電盤の焼失で列車無線に影響が出たため、1月7日は山陽本線の小月 - 門司間(この日に限り門司駅ではなく門司港駅にバスは発着した)、山陰本線の長門市- 下関間で終日運行を見合わせ、287本の列車が運休[3][10]。8日は山陽本線の下関 - 新山口間と、山陰本線の下関- 長門市間で間引き運転が行われ、112本の列車が運休した[10][15]。両日とも一部区間においてバスによる代行輸送が行われた[3][15]。9日には通常ダイヤに戻った[16]。
1月7日に下関駅を経由する下り寝台特急のうち、なはとあかつきは厚狭駅、はやぶさと富士は徳山駅でそれぞれ運転打ち切りとなった[3][8]。
1月8日発の下関駅を経由する上り下りの寝台特急は、全列車運休となった[10]。
下関駅は、事件後しばらくの間は西口と北口のみを使用[15][17]。1月19日に東口が仮復旧した[18]。仮復旧時には駅舎跡地をフェンスで囲んで通路のみが残されていたが、その後通路北側にプレハブの駅舎を建設、旧駅舎にあった下関市役所サテライトオフィスやATMが入居し、暫定的に復旧した[19]。
火災拡大の原因
事件の余波・対応
事件後の1月11日、JR西日本は管内にある他の駅の出火対策を強化する意向を表明[22]。また、木造駅舎の防火設備の設置状況についても適正かどうか精査すると表明した[23]。
駅舎の建て替えをめぐっては、既に2004年より、下関市役所とJR西日本、民間金融機関が協議会を設置、具体的な建て替え案の策定作業に入っており、2005年度末には新駅ビル建設を含む建て替えの基本コンセプトを公表している[24][25][26]。事件を受け、下関市やJR西日本などでは建て替えスケジュールの前倒しを行い、2009年からの5年計画で駅舎再築に着手、2014年3月に新しい駅舎が完成した[26][27][28]。
この放火事件がひとつのきっかけになり、障害を持つ受刑者や再犯率が7割を超えている高齢受刑者への対策、及びこれら受刑者の出所後の更生保護のあり方の再構築、法務省・厚生労働省による司法と福祉の連携が課題として認識され、2007年度から刑務所施設内で社会福祉士の採用が始まった[29][30]。2009年度には刑務所や少年院を出る人への福祉的支援や住居確保を行う「地域生活定着支援センター」の事業が開始された[31]。
刑事裁判
山口県内で初めて公判前整理手続が適用され、7回にわたる争点整理の結果、争点は責任能力の程度と検察官面前調書の任意性及び信用性に絞られた[32][33][13]。また、弁護人は精神鑑定を請求した[13]。
2006年(平成18年)9月25日、山口地裁(山本恵三裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で被告人Fは黙秘した[34][13]。このため、裁判長から「言いたくないのかな」と問われると、Fは無言で頷いた[34]。
冒頭陳述で検察官は、犯行に至る経緯について「被告は大きな施設である駅を燃やして長く刑務所に入ろうと思った。当時は風が強く、火をつければ燃え広がると考えた」と説明した[34]。一方、弁護人は「火をつけたのは鬱憤を晴らしたり暖を取ったりするためで、駅を燃やすつもりはなかった」と犯意を否定した[34]。また、事件当時、Fは心神耗弱状態で、北九州市で生活保護申請を却下されるなど生活困窮に陥った末の犯行だったと訴えた[34][13]。さらに検察官面前調書の任意性及び信用性については取り調べでFは自身に対して不利な供述を強要されており、信用できないと主張した[34]。
同日の公判では、弁護人の被告人質問が行われ、弁護人が「どんな時に火をつけたいと思うか」という質問に対してFは「どこにも行く所がないとか」と回答した[13]。一方、大半の質問に対して黙り込む場面もあったため、主任弁護人は「被告人が黙りこくったことは想定外」などと述べた[13]。
2006年(平成18年)9月26日、検察官の被告人質問が行われ、検察官が「何を燃やそうとしたのか」という質問に対してFは「段ボールを燃やそうとした」と回答した[35]。また、「取り調べには正直に話したか」という質問に対しては「言ってたと思う」と回答した[35]。同日の公判では、取り調べを行った警察官の証人尋問も行われ、警察官は、Fは取り調べに迎合的だと感じたために「駅を燃やそうとしたのか」と質問した後に「駅を燃やそうとしたのではないのではないか」と逆の意味の質問を交えて真意を確認したと証言した[35]。
同日、山口地裁は検察官面前調書を証拠採用した上で弁護人が請求したFの精神鑑定を実施することを決定した[35][36]。
2007年(平成19年)7月31日、福岡地裁でFの精神鑑定人の期日外尋問が行われ、鑑定人は「軽い精神の遅れは認められるが、善悪を判断する能力と自分の行動を制御する能力に著しい障害はない」という内容の意見書を福岡地裁に提出した[37]。
2007年(平成19年)10月12日、弁護人はFの精神鑑定を再度実施するよう山口地裁に請求した[38]。これを受けて山口地裁は弁護人が請求したFの精神鑑定を再度実施することを決定した[39]。
2008年(平成20年)1月30日、福岡地裁でFの2度目の精神鑑定を実施した鑑定人の期日外尋問が行われ、鑑定人は「犯行時も現在も軽度の精神発達遅滞が見られるが、善悪を判断する能力とそれに従って行動する能力はほぼ保たれていた」という内容の鑑定書を福岡地裁に提出した[40]。
2008年(平成20年)3月12日、論告求刑公判が開かれ、検察官は「刑務所に入るために火をつけたという短絡的で自己中心的な犯行」としてFに懲役18年を求刑した[41]。
2008年(平成20年)3月26日、山口地裁(山本恵三裁判長)で判決公判が開かれ、裁判長は「本件による駅の被害額が5億円にも上り、列車運行に大変な支障を来たした罪は重い」としつつも「軽度の知的障害で、高齢でありながら、出所後、格別の支援を受けることもなく、社会に適応できなかったことは、酌むべき事情」として、Fに現住建造物等放火罪で懲役10年の実刑判決を言い渡した[42]。この判決に対して検察官と弁護人の双方が控訴しなかったため、控訴期限を迎えた4月10日を以って懲役10年の判決が確定した[43]。
事件後
事件後、下関駅に保存されてきた「振鈴」が一時行方不明になった[44]。振鈴とは列車の発車時刻を知らせたハンドベルで、下関駅では明治時代から大正時代にかけ使用されていた[44]。振鈴は1月10日になって、駅長室の焼け跡から発見された[44]。木箱や柄の部分は焼失したが、鐘本体に異状はなく音色はそのままの状態に残されており、焼けた部分は三角屋根の焼け残った柱の一部を切り出して加工・修復し、事件の資料として下関駅にて保管されている[44][45]。
2006年、山本譲司が自著で本事件と犯人に言及し[14]、高齢受刑者や累犯障害者の問題を取り上げた。以後こうした問題や刑務所の様子がマスコミなどで報道されるようになった[46][47][48]。
男性は2016年(平成28年)6月2日に福岡刑務所を仮釈放、同年8月3日に刑期満了となった[49]。仮釈放した際には、福岡県北九州市のNPO法人「抱樸」の理事長である奥田知志と職員ら支援者が男性を出迎えに行った[4]。男性は計11回、50年以上服役し、社会にいた年月のほうが短く、また過去10回の出所時には、誰かが迎えに出ていたことはなかった[50][4]。
出所後は抱樸の施設で暮らし[51]、また奥田・職員らとともにテレビ朝日のドキュメンタリー番組『テレメンタリー2017』による7ヶ月間の取材を受け、2017年1月22日、更生しようとする元受刑者の日常や、抱樸による支援の様子が放送された[52]。また元受刑者は同年3月、東京社会福祉士会主催のシンポジウムに理事長の奥田とともに出席・登壇・発言した[31]ほか、同年4月18日放送『NHKニュースおはよう日本』内のコーナー「けさのクローズアップ」でもこの元受刑者が取り上げられ、奥田とともに取材を受けている[53]。