関東享禄の内乱
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室町時代・戦国時代は、幕府の将軍家をはじめとする多くの武家で、家督争いや嫡流・庶流間の勢力争いが続いた。享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱以後、関東武家の中心となった古河公方家、関東管領上杉氏も例外ではなく、古河公方家では、第2代・足利政氏から第3代・高基に継承されるときに両者は争い、同時に関東管領家でも、政氏側の上杉顕実と高基側の上杉憲房が家督を巡って争ったため、多くの武家を巻き込んで「永正の乱」と呼ばれた大規模な内訌になった。(詳細は「古河公方」参照)
そして、第3代古河公方・高基から第4代・晴氏に継承されるときにも、永正の乱よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じたと考えられている[1]。
経過
古河公方家
- 享禄元年(1528年)12月27日 古河公方家嫡男・足利晴氏が元服した[2]。
- 享禄2年(1529年) 安房・里見義豊が古河公方足利家当主として、足利晴氏を挙げた[3]。古河公方・足利高基と晴氏の抗争を示唆する[1]。
- 享禄2~4年 5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した[4]。
- 享禄4年(1531年)6月1日 足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討(足利政氏から足利基頼宛の書状[5]より)。抗争の終結が近いことを示唆するとともに、本書状から宇都宮興綱と芳賀次郎(高綱?)が晴氏側であったこと、政氏が晴氏側であったこと、武蔵・忍城の成田親泰と足利基頼は政氏側であったと考えられる[1][6][7]。
- 享禄4年(1531年)6月6日 晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、足利政氏の治療を指示[8]。この時期に晴氏は古河公方の地位を確立していたことを示唆する[1]。
- 享禄4年(1531年)6月9日 高基が小山小四郎に対して隠居を知らせ、今後も同様の奉公を求めた[9]。抗争の終結を示す[1]。
関東管領・山内上杉氏
- 享禄2年(1529年)正月二十四日条 山内上杉氏の家臣・白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される(『続本朝通鑑』)。山内上杉氏内部に対立があることを示す[1][10]。
- 享禄2年(1529年)八月十四日条 山内上杉氏当主・上杉憲寛が上野国碓氷郡・安中城の安中氏討伐を開始。同盟関係にあった扇谷上杉氏の上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。(『続本朝通鑑』)
- 享禄2年(1529年)九月二十二日条 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立、上杉憲寛に対して謀反を起こした。憲寛は長野氏を随行させながら、安中城から程田(高崎市)に後退。(『続本朝通鑑』) 憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる[1]。
- 享禄3年(1530年)5月 「左衛門尉」が上野国多胡郡・仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた[11]。山内上杉氏領国内で戦乱があったことを示す[1]。
- 享禄3年(1530年)5月21日 上杉憲寛が、高田憲頼の注進により、被官・守山与五郎の戦勲に対して感状を発給[12]。高田憲頼が憲寛側だったこと、上野国甘楽郡・高田城(富岡市)周辺で合戦があったことを示す[1]。
- 享禄3年(1530年)10月25日 上杉憲寛が、用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官・三富平六に与える[13]。用土氏は憲寛に敵対していたことを示す[1]。
- 享禄4年(1531年)9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して、晴直と名を改めた[14]。抗争が終結し、上杉憲政が勝利したことを示す[1]。
結果
古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。また、山内上杉氏では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲した[1]。
扇谷上杉氏もこの乱の影響を受ける。享禄2年(1528年)末には、後北条氏との抗争が大規模化しているが、内乱中の山内上杉氏・古河公方は頼れなかったため、扇谷上杉朝興は甲斐・武田信虎と同盟を結んだ[1]。
この時期の乱を「永正の乱」と比較したとき、古河公方家の内乱と山内上杉氏の内乱は互いの連携が弱く、周辺の武家を広く巻き込むことはなかった。個々の領内での権力争いとしての側面が強く見られており、古河公方家と山内上杉氏ともに「享禄期には、その存立は領域権力としての性格を本質にしつつあった」と評価される[1]。