長野方業
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長野氏系図は相違点のある諸本が伝わるものの、方業については、長野尚業/業尚の息子で憲業の弟、氏業・業政の叔父という点ではおおよそ一致している[5]。また、前橋市の長昌寺はその開基を長野左衛門尉方業、法名固山宗賢と伝えており[6]、『前橋風土記』は前橋城初代城主を固山左衛門尉宗賢としている[7]。
戦前の岡部福蔵や福島武雄は、これらの史料を根拠として長野方業こと固山宗賢は、鷹留城主・長野業尚の息子で、厩橋城の初代城主となり、鷹留城主は兄の憲業が継いだと解釈した[8][9]。
この説に対し今井善一郎は固山宗賢の没年が延徳元年(1489年)であるとされていることが、系図では文亀3年(1503年)に死去した父や永正11年(1514年)に死去したとされる兄に比べて早すぎることについて疑問を示した[10]。
近藤義雄は長昌寺記録に「方業 信業子」「業尚 方業嫡」「憲業 業尚嫡」とあることから系譜を見直し、方業を憲業の祖父と解して世代を遡らせることでこの問題を解決した[2]。
他方、上杉文書には(大永4年[注釈 2])十一月十七日付徳雲軒宛長野方業書状が存在する[11]。これに従えば1524年当時にも方業が存命だったと解釈せざるを得なくなり、延徳元年死亡と矛盾をきたす。近藤義雄は同文書の署名が「方斎」と読まれていたことから、これは方業とは別人の「方斎」による文書であると説明した[2]。
この書状と一連の文書から、「厩橋宮内大夫」と「長野左衛門大夫方業(方斎)」が、協力して総社長尾氏を攻撃している状況が確認できる。『群馬県史』では「方斎」は官途名や読みの一致から憲業の弟である方業と同一人物であり、「厩橋宮内大夫」を方業の子と解し、方業の延徳元年死亡については言及していない。
方業を方斎と別人と解する立場からは、『箕郷町誌』[12]や『日本城郭大系』[13]のように「厩橋宮内大夫」が方業で、「方斎」はその兄・信業(憲業と同一人物ともされる)であるという説明がされることもあった。『日本城郭大系』[13]や『群馬県人名大事典』[1]では、方業を長野賢忠と同一人物としている。
上述のように従来は方業は厩橋城主であるという見方が前提とされていた。しかし徳雲軒性福による返書の宛名には「箕輪へ参」とのみあり、さらに前述の署名が山田邦明により「方斎」ではなく「方業」と解読されたため[14]、方業は箕輪城主であったと考えられるようになった[11]。
黒田基樹は「長野左衛門大夫方業」は箕輪城主で、「厩橋宮内大夫」を厩橋城主の長野賢忠と解釈した[15]。さらに「永井実平書状」に「厩橋の永野玄忠は信濃殿伯父の由」とあることから、方業の次の箕輪城主・長野信濃守から見て長野賢忠は伯父にあたる、すなわち賢忠は方業の兄と解釈する[16]。長野氏系図で方業が憲業の弟とされていることについては、父・業尚が建立した長年寺に関する記録[17]に憲業の弟として諏訪明尚のみが記載されていることから、方業は厩橋長野氏から箕輪長野氏へ養子に入ったという説を提示している[18]。なお黒田説では厩橋城を築城した固山宗賢とは、『松陰私語』で文明9年(1477年)に長尾景春の乱で戦死したとある「長野左衛門尉為兼」で、「為兼」は「為業」の誤記であり、延徳元年(1489年)はその後継者が十三回忌に橋林寺を創建した年であり、固山宗賢の実名を方業としたのは誤伝と説明している[19]。
久保田順一も方業を箕輪城主、業政はその後継者と説明しているが、「まさなり」と「なりまさ」で訓が逆となることから同一人物である可能性も提示している[11]。天文4年(1535年)に榛名神社に出された制札(従来長野業政のものと説明されていた)にも方業のものと酷似した花押が用いられていることから、これを後継者が似た花押を採用したものとみることもできるが、方業と業政が同一人物とも解釈できるからである[11]。なお黒田基樹は天文4年まで方業が健在で、それ以降に業政が家督を継承したとしている[20]。
事蹟
方業の業績としては、大永4年(1524年)[21]に惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した際、方業が惣社長尾氏の重臣・徳雲斎を調略したことが知られている。ところが、内応が発覚した徳雲斎は顕景に殺害されたために、長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰められた顕景が既に憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介で降伏した。なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされている[22]ことから、方業と業正が父子とすれば当然ながら景誠室の父は氏業ということになるとともに、この事件(景誠の離反・降伏)との関係も考えられる。また、享禄年間に発生した山内上杉家の内紛は、長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛と小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政の間で繰り広げられ、箕輪長野氏の当主である方業が前者陣営の中心的存在であったとみられているが敗れている。憲寛方の諸氏は許されて、方業の後継者とみられる業正の娘を小幡憲重に嫁がせ、その後箕輪長野氏(方業)の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を安中重繁に、その重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られている(関東享禄の内乱)[23]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、632-633頁。doi:10.11501/12189010。 (
要登録) - 1 2 3 近藤義雄『箕輪城と長野氏』上毛新聞社〈上毛文庫〉、1985年12月1日、29-31頁。doi:10.11501/9643837。 (
要登録) - ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 P.223
- ↑ 『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年、「長野方業」(執筆者:久保田順一)[要ページ番号]
- ↑ 高崎市史編さん委員会 編『新編 高崎市史』 資料編4 中世Ⅱ、高崎市、1994年3月31日、781-786頁。doi:10.11501/13197243。 (
要登録) - ↑ 『上野国郡村誌』 4巻《群馬郡1》、群馬県文化事業振興会、1981年2月、211-214頁。doi:10.11501/9642298。 (
要登録) - ↑ 『前橋風土記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ↑ 岡部福蔵『上野人物志』 上、上毛郷土史研究会、1924年7月1日、108,173頁。doi:10.11501/978757。 (
要登録) - ↑ 福島武雄『箕輪城考・古城址調査の栞 : 附・城制用語略解』上毛郷土史研究会、1929年、30頁。doi:10.11501/1178634。
- ↑ 今井善一郎「初期の前橋城主について」『群馬文化』第78/79号、群馬文化の会、22頁、1965年6月30日。doi:10.11501/6048079。ISSN 0287-8518。 (
要登録) - 1 2 3 4 久保田順一『長野業政と箕輪城』夷光祥出版〈シリーズ・実像に迫る〉、2016年12月8日、21-22頁。ISBN 978-4-86403-223-0。
- ↑ 箕郷町誌編纂委員会 編『箕郷町誌』箕郷町教育委員会、1975年8月19日、967頁。doi:10.11501/9641171。 (
要登録) - 1 2 平井聖; 村井益男; 村田修三 編『日本城郭大系』新人物往来社、1979年11月15日、415頁。doi:10.11501/12205902。 (
要登録) - ↑ 山田邦明『戦国のコミュニケーション』吉川弘文館、2001年 P87-88
- ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 PP.223-224
- ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 PP.231-232
- ↑ 「長年寺開堂之仏事」『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』
- ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 PP.231-232
- ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 P.220
- ↑ 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 P223
- ↑ この年代は旧来は大永7年(1527年)の事件とされてきたが、黒田基樹の「足利長尾氏に関する基礎的考察」(荒川善夫〔ほか〕編集 『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年)/黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年)において、当時の状況から大永4年に比定し、久保田順一の『戦国人名辞典』「長野方業」項も同年の事件とする。
- ↑ 黒田基樹「長尾景春論」 黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戒光祥出版、2010年)ISBN 978-4-86403-005-2
- ↑ 黒田基樹「関東享禄の内乱」(初出:佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1)
