除村吉太郎
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1897年(明治30年)、群馬県多野郡美土里村[1](現・藤岡市[2])に生まれる。旧制藤岡中学校(群馬県立藤岡高等学校、現・群馬県立藤岡中央高等学校)を経て[2][1]、1918年(大正7年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科を卒業[2][1][3]。
深井英五の紹介により[1]、一時日本銀行調査部に勤務するが退職[2][1]。駐日ロシア大使館に勤務した後[2][1]、1922年(大正11年)にハルビンの日露協会学校助教授となった[2][1][3]。1924年(大正13年)、母校である東京外国語学校助教授に就任し、1930年(昭和5年)教授に昇任[2][1][3]。1935年(昭和10年)にソ連に留学するが、帰国後の1940年(昭和15年)に思想的立場が理由となって教職を追われた[2][1][3]。戦時期には『ロシア年代記』の翻訳に専念し、翻訳家としての代表的作品となった。1945年(昭和20年)治安維持法により拘禁[2][1]。
1946年(昭和21年)日本共産党に入党[2][1]、1947年(昭和22年)の参議院議員群馬補欠選挙に日本共産党公認候補として立候補したが落選した[2][1][4]。同年早稲田大学文学部講師[2][1]、のち同大客員教授として教鞭をとった[2]。
1949年(昭和24年)日ソ親善協会の設立に参加し、常任理事となった[2][1]。また日ソ学院長を務める[2][1]。