陳夷行
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元和7年(812年)、進士に及第し、節度使の幕僚を歴任した。宝暦3年(827年)、侍御史から虞部員外郎・分司東都となった。大和3年(829年)、入朝して起居郎・史館修撰となり、『憲宗実録』の編纂に参与した。大和4年(830年)、実録を献上し、司封員外郎に転じた。大和5年(831年)、吏部郎中となった。4月、翰林学士をつとめた。大和8年(834年)、皇太子侍読を兼ね、5日に1度、長生院に入って皇太子に経書を講義した。翰林学士・皇太子侍読のまま、諫議大夫・知制誥に転じた。大和9年(835年)8月、知制誥・翰林学士・皇太子侍読のまま、太常寺少卿となった[3][2]。
開成2年(837年)4月、夷行は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった。開成3年(838年)、同僚の宰相である楊嗣復と衝突し、足の病を口実に辞任を願い出たが、文宗に許可されなかった[4][5]。9月、夷行は門下侍郎に転じた[6]。開成4年(839年)5月、宰相を退任し、吏部尚書となった[7]。
この年の9月、夷行は検校礼部尚書となり、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使として出向した。開成5年(840年)、武宗が即位し、李徳裕が政権を掌握すると、夷行は7月に華州から長安に召還され、再び中書侍郎・同平章事(宰相)となった[8][9]。
会昌3年(843年)11月、夷行は検校司空・同平章事・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使として出向した[8][10]。会昌4年(844年)8月18日、死去した[11]。司徒の位を追贈された[8][10]。