陳紀 (潁川)
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父の陳寔が清流派として天下に名を博しており、その影響で陳紀も党錮の禁によって官職に就くことができず、陳紀は家にこもり『陳子』という書物を著していた。
中平元年(184年)、黄巾の乱が発生すると霊帝が大赦を行ったため、仕官の道が開かれ、陳紀は四府(大尉府、司徒府、司空府、大将軍府)[1]から招聘を受けたが、これらを辞退した。
中平6年(189年)、董卓が洛陽を掌握すると、陳紀は五官中郎将に任じられ、やむを得ず入京した、後に侍中に遷った。
初平元年(190年)、陳紀は平原相に任命された。董卓は長安への遷都を考えており、陳紀に是非を問うたが、これに反対した。董卓は不満であったが、陳紀の名声には敬意を払っていた。このころ陳紀を司徒に任じようという議論が起こったが、陳紀は朝廷が乱れているの見て、行装を整理することなく、急いで平原国に赴任した。この後に太僕を拝命し尚書令となった。
建安元年(196年)、献帝が袁紹を太尉に任命した際、袁紹は大将軍であった曹操の下になるのを恥とし陳紀にその位を譲ろうとしたが、陳紀はこれを受けなかった。献帝は改めて陳紀を大鴻臚に任命した。