陸玩

From Wikipedia, the free encyclopedia

陸 玩(りく がん、天紀2年(278年)- 咸康7年12月14日[1]342年1月7日))は、中国東晋官僚政治家士瑤本貫呉郡呉県。祖父は陸瑁陸遜の実弟)。父は陸英。伯父は陸喜。兄は陸曄

高平国相の陸英の子として生まれた。東海王司馬越に掾として召されたが、就任しなかった。琅邪王司馬睿に召されて丞相参軍となった。累進して、奮武将軍の号を加えられた。侍中に任じられたが、病を理由に辞した。

王敦にその長史となるよう求められ、軍令によって迫られたため、やむをえず命に従った。太寧2年(324年)、王敦の乱が平定されると、郗鑒が王敦の旧幕僚や佐官たちをみな免官禁錮にしようと意見したが、温嶠が上表して弁護したため、陸玩は連座しなかった。再び侍中に任じられ、吏部尚書に転じた。会稽王師を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。

咸和2年(327年)、蘇峻蘇峻の乱を起こすと、陸玩は兄の陸曄とともに建康の宮城を守った。陸玩はひそかに匡術を説得して、咸和4年(329年)に帰順させた。功績により興平伯に封じられた。咸和5年(330年)、尚書左僕射となり、揚州大中正を兼ねた。咸和6年(331年)、尚書令となった。左光禄大夫・開府儀同三司の位を受け、散騎常侍の任を加えられた。

咸康6年(340年)、庾亮が死去すると、陸玩は代わって司空に上った。

咸康7年12月癸酉(342年1月7日)、死去した。享年は64。は康といった。

逸話

  • 陸玩は弱冠にして美名があり、賀循はその清廉公平さを称揚していた。
  • 王導が江南にやってきたとき、結婚話を陸玩に持ちこんだが、陸玩が「小高い丘には松や柏はなく、香草と臭草は同じ器に入れません。陸玩は才能のない人間ではありますが、乱倫を始めさせない義は持ち合わせております」と答えたため、王導は取りやめた。
  • 陸玩が王導のもとを訪れて、を食べたところ、このため病にかかってしまった。王導に「僕は呉人でありますが、少々北方の鬼になってしまいました」と手紙を書いた。
  • 陸玩が司空に任じられると、ある人が邸を訪れて、柱と梁の間に一杯の酒をそそぎ、「当今は材が乏しいので、おまえが柱石となったのだ。人の梁や棟を傾けるでないぞ」と唱えた。陸玩は笑って、「あなたには良い戒めをいただいた」と言った。やがて嘆息し、「わたしが三公となったのは、天下に人がいないからだ」と賓客に言った。

子女

  • 陸始(後嗣、侍中・尚書)
  • 陸納

家系図

脚注

伝記資料

Related Articles

Wikiwand AI