陸軍残虐物語
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ストーリー
スタッフ
キャスト
製作経緯
企画
1961年9月、東映東京撮影所(以下、東撮)所長に赴任した岡田茂(のち、東映社長)は、社会派映画がメインで当たる映画が1本もなかった東撮に大鉈を振るい[5][6]、古手監督を一掃して、新進気鋭の若手監督を抜擢した[1][7][8]。"戦記路線"を打ち出す時期を狙っていた岡田が[9]、同期の吉野誠一プロデューサーが提出した企画を採用し[1][10]、佐藤純彌を監督昇進させたのが本作である[1][11][12]。岡田はこの東撮所長時代に"〇〇路線"という言い方を発案し[8][9][13][14]、次々と新機軸を打ち出した[9][15][16][17]。"東映ギャング路線""やくざ路線"に次ぐ新路線として[8][9][16][18]、本作を"戦記路線"と名付け、路線化する予定であったが[2]、後述する理由で"戦記路線"は本作一本のみで終了している。
脚本
脚本の棚田吾郎と三國連太郎、西村晃、中山昭二ら、出演者の多くに軍隊の経験がある[3][19]。またシナリオの初稿があがった時に監督の佐藤と吉野プロデューサーが岡田所長に呼ばれ、岡田から自身の軍隊に於ける理不尽な実体験をシナリオと関係しながら3時間聞かされた[1][12]。岡田の初プロデュース作『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(1950年)は、日本初の「反戦映画」ともいわれる[20]。
撮影
今日は勿論、当時でもアウトと思われるが[4]、本作は"セーレツびんた""うぐいすの谷渡り"など、戦時下の大日本帝国陸軍に於ける20数種類のリンチ場面の再現が売りで[4]、リンチ場面の迫力を出すため、三國連太郎や中村賀津雄などが、実際に蹴られたり殴られたりして顔が腫れ上がり、撮影がストップした[4]。加害者側の西村晃は戦時中に実際にリンチを受けたことがあり[4]、南道郎は軍隊映画37本でいじめ役を専門としており、迫力を持った撮影となり、気の弱い人なら失神しそうな残酷シーンとなっている[4]。
逸話
本作の2ヶ月前に公開された今井正監督『武士道残酷物語』のタイトルも岡田の命名[5][21]。当時グァルティエロ・ヤコペッティ監督のモンド映画『世界残酷物語』の影響で日本映画界に"残酷ブーム"が起きていた[22]。岡田が"残酷"に似た"残虐"という言葉を取り入れ『陸軍残虐物語』とタイトルを付けたら、右翼や学生やくざが反撥し東映に押し寄せた[5][21]。「何だこのタイトルにある『残虐』とは。そんなバカなことがあるか!責任者出て来い」と抗議するので、岡田が軍隊上がりの社員数名を引き連れ応対した[5][21]。「バカなこととは何ですか。あなた、軍隊の経験があるんですか。我々はみな、軍隊経験者ですよ」「いや、そんなことはあり得ない」「あり得ないことはない、実話ですよ、これは」などと言い合いになり、結局今後この手の作品は作らないという条件で収まった[5][21]。このため製作時に"戦記路線"と名付け路線化を予定していたが[2][9]、"戦記路線"はこれ一本のみで終わった[5]。
評価
朝日新聞映画欄の名物記者・井沢淳も褒めて、社内評価も高かったが興行は振るわなかった[1][11]。三國連太郎は「佐藤純弥さんの最高傑作ではないでしょうか」と述べている[19]。佐藤が本作で第14回ブルーリボン賞新人監督賞を受賞している。
学徒出陣で内務班を経験した安田武は「感銘を受けた。「真空地帯」より「きけわだつみのこえ」よりもっとリアルに「軍隊」―「真空地帯」の実相が描かれていると思った」「内務班という、かつて、我が国に存在した史上空前の人間地獄を、よく描いて見せたと思った」と絶賛している[23]。一方、同じく学徒出身の虫明亜呂無は「呑気なのである。出鱈目言うことなし」と内務班描写に不満を示している[24]。