植村直己物語

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植村直己物語』(うえむらなおみものがたり)は1986年6月7日に公開された日本映画[1] [3][4][5]。製作は毎日放送電通。配給は東宝カラービスタビジョンサイズ。上映時間は140分。

世界的な冒険家植村直己[6]の半生と、植村夫婦の愛を描く伝記映画[4][7][8][9]。植村の足跡を忠実に追い、デナリモンブランエベレスト北極圏などで長期ロケが行われた[4][10]

キャスト

スタッフ

製作スタッフ

製作

企画

1984年植村直己がマッキンリー山(デナリ)で消息不明となった直後に[5]電通毎日新聞社が映画の企画を挙げ[5]、主役の植村直己を作家椎名誠[5][11]、監督は森谷司郎で構想していた[5][12]。植村と椎名は旧知の仲で親交もあり、雑誌による対談も行われていた[13]。この段階では電通と毎日新聞社は日本アルプスあたりで撮って安く作れないかという趣旨だったという[5]

製作発表

1985年1月29日、製作発表[14][15]。電通・毎日放送提携作品、東宝の配給で、製作は田中寿一が代表を務める田中プロモーションと発表された[15]。製作費は15億円で[12][15]、公開は1986年の新春第二弾(1986年1月公開)[12][15]、1985年2月マッキンリー、4月北極グリーンランド、その後、アフリカキリマンジャロ南米アマゾン、最後にエベレストロケを行うと発表されていた[12]松岡功東宝社長は「素晴らしい映画になると確信している。『南極物語』の配収55億円を目標に、国民映画として一人でも多くの人に感動を与えたい」と述べた[15]。製作サイドとしては当然「『南極物語』の夢よもう一度」という考えがあった[12]。毎日放送開局30周年記念事業として同社と電通が共同出資[12]。電通が本格的に映画製作に乗り出した作品で[16]、電通としては『風の谷のナウシカ』や『ビルマの竪琴』で実績で先行する博報堂に負けていられない意識があった[16]

キャスティング&監督

椎名誠はTBSテレビ開局30周年記念事業『シベリア大紀行』の海外取材で映画を撮ることが出来ず、西田敏行に主演がバトンタッチされた[11]。西田も植村と同じ明治大学出身であり、椎名も明治大学が後援している植村直己冒険賞の審査員を毎年務めている[17][18]。監督は予定してた森谷司郎の体調が思わしくなく[12]、主演・椎名誠、監督・森谷四郎が白紙に戻ったところで[5]、1984年夏に豊富な海外ロケの経験が買われ[12]佐藤純彌に監督オファーがあった[5][12]。佐藤は「植村が世界中を渡り歩いていたことを映像で見せないと作る意味がない、何より植村に対して失礼でないか」と、「これが受容れられないなら監督は断る」と製作サイドに訴え、これが了承された[5]。エベレストに行くだけで製作費は1億円増えた[5]。佐藤は作品でも肝となる植村が単独での冒険に拘ったことに凄く惹かれ[5]、作品内でも西田に語らせ、倍賞千恵子演じる植村の妻・公子が植村に魅かれた理由として描いている[5]。佐藤純彌は1977年の『人間の証明』でガクンと評価を落とし[19]、1980年以降、『未完の対局』『空海』、本作と国際感覚の超大作を連打していたが[19]、大作を嫌いがちの当時の映画メディアからは無視されていた[19]。植村の妻役は当初から倍賞千恵子が本命とされ[12]吉永小百合十朱幸代の名前も報道されたが[12]、結局、倍賞千恵子になった[12]。倍賞は松竹イメージが強い女優ながら、堀内実三(堀内實三)東宝取締役宣伝部長兼映画調整部長(当時)が「『植村直己物語』と『旅路 村でいちばんの首吊りの木』で倍賞さんを押して、1986年は倍賞さんの年にしたい」などと述べていることから[20]、倍賞はもうフリーになっていたものと考えられる。

撮影

植村が消息不明になった1984年の翌、1985年3月1日に植村が消息を絶ったマッキンリー山(デナリ)でクランクイン[15]。エベレストでの撮影は撮影隊と群馬県山岳連盟を中心とした登頂隊とに別れ[21]、ルート工作などをした[22]。群馬県山岳連盟の会員が中心になって撮影隊をつくり、八木原圀明がエベレスト登山の撮影隊長として協力し、西田敏行ら役者、撮影クルーを約4カ月間にわたってサポート[21][23]。一緒にベースキャンプなどで寝泊まりした[21]

山岳撮影サポート

本作では数々の極地ロケのために当時の一流の登山家が集められ、カメラマンを含む八木原圀明(植村直己物語撮影隊隊長)[21]宮崎勉(植村直己物語撮影隊副隊長)[21]山田昇登攀隊長・スタントマン)、名塚秀二三枝照雄阿久津悦夫木本哲佐藤光由小西浩文、小林俊之、斉藤安平近藤謙司山岳スタントマン(デナリ))からなる11人の撮影隊が編成された。1985年10月30日にはこのうち、八木、阿久津、山田、名塚、木本哲、三枝、佐藤の7人もの隊員がエベレスト登頂に成功した[24][注釈 1]。うちエベレスト登頂は2回目の山田昇は、酸素ボンベを使用しない「無酸素」での登頂であった[26]

佐藤監督は「群馬県山岳会の10人がすっと付いてくれて、高山病にならない方法とか装備とか色々なケアをしてくれた。彼らの応援がなければこの映画の撮影は不可能だったかもしれません。残念なことに映画は完成してから5年後にそのうちの5人が山で亡くなったと聞きました」などと述べている[5]。佐藤監督も胃潰瘍になり、バケツ一杯の吐血をした[5]。西田敏行は減量の他、高山病を防ぐため高所順応のトレーニングを積んで撮影に備えた[5][21][23]スタッフ、キャストにも高血圧下痢など体調を悪化させた者が多かった[5]雨季には親指大のヒルが大量に降って来て、身体全身、局部などにも吸い付いたこともあったという[5]。メインロケは1985年8月から10月にかけて、チョモランマの標高5350メートルに位置するベースキャンプで行われた[23]。撮影は約1年[5]

西田はしょっちゅうギャグを言ったりし、周囲に笑いの絶えない人だったというが[22]、撮影ではクレバスに落ちそうになったり、ぎりぎりで雪崩を回避したり、死を意識したことが2度あったという[10]。西田はエベレストで12キロ痩せた[22]倉田保昭は山で毎日、空手教室を開き「お前、ナイフ持ってかかってこい」と現地スタッフを挑発し、実際にかかって行った人を一瞬のうちに倒したという[22]古尾谷雅人矢沢永吉の大ファンで[22]。山岳ガイドの倉岡裕之に「お前も永ちゃんを聴かなきゃダメだぞ」と言ったという[22]。ただ高所を辛そうにしていたといわれる[5][22]

植村と妻との出会いなどが描かれる国内シーンは、実際に二人が生活した板橋区仲宿で撮影が行われた[5]

エピソード

長期ロケで禁欲生活が続くともう女性の"声"だけで"アレ"ができるようになり、隊員たちの中で一番人気は高橋真梨子で、西田がその話を高橋にしたら、打ち上げに参加して歌ってくれたという[10]

興行

東宝本番線(邦画系)で1986年6月7日から7月25日までのロングラン[7]。この間、新宿プラザ他、東宝洋画系では『子猫物語』が同年7月12日から[7]、7月26日からは『子象物語 地上に降りた天使』が公開。東宝は同時期に動物が登場する映画で攻めた[7]

作品の評価

批評

ぴあは「西田敏行の執念ともいえる演技が光る」と[8]中野翠は「西田敏行は全身、厚着で顔もよく見えない状態。ほとんど顔を隠した全身演技。撮影チームも大変だったろう」などと[9]芝山幹郎は「善良さを強調するときの西田敏行は苦手だが、身体を張って勝負できるのは彼の強み。CGを使わぬ映像と、廉直な語りが印象的」などと[9]斎藤綾子は「単独登頂に拘る理由は最小単位の自分の体で挑戦するため。植村(西田)の人懐っこさや誠実さが切実に伝わり猛烈に感情移入」などと[9]、森直人は「稀代の登山家の冒険と生き様をガチで追体験する壮大な試み。もはやドキュメントに近いだろう」などと[9]洞口依子は「植村直己と西田敏行の入れ替りを劇中で体現したような怪作」などと評した[9]。『シティロード』は「後半を夫婦愛の物語にしないで、植村さん本人に絞ってもよかったのでないか。奥さんが画面に出てくると、冒険の方の影が薄くなる。冒険が日常レベルに引き下げられる(中略)冒険に生きた男の半生をなぞっただけの映画だが、なぞった相手がすこぶる大きいから、その分映画も大きくなった。教訓がないのもいい」などと評した[7]

受賞歴

ソフト状況

ビデオは発売されていたが、廃盤になっていた[8]DVDが発売されている。

関連書籍

  • 文藝春秋編『植村直己の世界』 文藝春秋、1986年6月10日ISBN 4163405909[注釈 2]

参考文献

脚注

外部リンク

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