隆渓繁紹
日本の僧侶
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概要
来歴
生い立ち
旧暦宝徳元年に生まれた[6][注釈 2]。幼少の頃から落ち着いており[7]、物静かであったという[7]。山城国愛宕郡の大徳寺の門を叩き[4][2][5][7]、一休宗純の下で剃髪し[7]、仏法を学ぶ[4][2][5]。その後、伊勢国飯高郡の浄眼寺の門を叩き[2]、大空玄虎に謁する[2]。さらに遠江国榛原郡の石雲院に参じ[2][1][7]、大空の師である崇芝性岱に師事した[2][7]。石雲院で18年ほど修行を積んだのちに一朝契悟し[2][7]、能登国鳳至郡の總持寺にて瑞世した[2]。
僧侶として

總持寺では住職を務めたが[7]、今川氏の下で高天神城の城代を務める浅羽幸忠に招かれ、遠江国城飼郡にて華嚴院を創建する[4][2][5][7][注釈 3]。ただし、隆渓は師である崇芝性岱を勧請開山とし、自身は第二世を称した。1487年(旧暦長享元年)には遠江国榛原郡にて正雲寺を開山する[8]。
韮山城の城主である伊勢盛時に招かれ[1][7]、1489年(旧暦延徳元年)に伊豆国田方郡の修禅寺にて住持職に据えられる[1][注釈 4]。それを機に修禅寺は臨済宗から曹洞宗に改宗した[1]。修禅寺は1361年(旧暦康安元年)に畠山国清の乱により戦渦を受け[1]、1407年(旧暦応永9年)には火災で伽藍が全焼したことから[1]、それ以来荒廃していたが[1]、盛時の庇護の下で隆渓が寺勢を盛り返した。修禅寺を再興したことから[2]、隆渓は修禅寺の中興開山と位置付けられており、修禅寺のウェブサイトでも「開山隆渓繁紹禅師」[1]と表記されている。
1499年(旧暦明応8年)に修禅寺を出て[7]、1499年9月(旧暦明応8年8月1日)に石雲院に輪住する[9]。師である崇芝性岱の没後、石雲院は崇芝の門流による輪住制が採られていたためである。その後、再び修禅寺に戻った[7]。1504年9月(旧暦永正元年8月7日)[4][2][5][7][10]、修禅寺にて死去した[4][5][7]。没年は56歳とされている[4][2][5][7]。