隋唐洛陽城遺跡
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隋の大業元年(605年)に創建され、その規模と格式の高さは長安に次ぎ、東都とも称された[1]。江南から吸い上げた莫大な諸物資を集積する拠点作りというのが、造営の動機のひとつであった[2]。
隋唐時代の洛陽城は、洛河の南北両岸にまたがり、北は邙山から南は伊闕にいたる地域に建てられた。宮殿区は、洛河北岸に位置した。城跡には宮城・皇城・外郭城に加えて、円璧城・曜儀城・東城・含嘉倉城などが含まれる[3]。
外郭城はほぼ正方形で、南から北に向かってやや細くなっている。東壁は7312m、南壁は7290m、北壁は6138m、西壁は6776m。城壁基底部の幅は15m - 20mであった。全城には、あわせて8つの城門が設けられていた。南壁には長夏門・定鼎門・厚載門、東壁には上東門・建春門・永通門、北壁には安喜門・徽安門、西壁には門がなかった。南壁3門と東壁の建春門には3本の門道を備えていた[3]。
城内の道路については、洛河以南で南北方向の縦街が12本、東西方向の横街が6本確認されている。また洛河以北では、南北方向の縦街が4本、東西方向の横街が3本走っていた。そのうち南北方向の主要大道である定鼎門大街、別名天門街は、道幅121mで、いまなお3kmにわたって残っている[3]。
『旧唐書』によれば、城内にはあわせて103の坊と3つの市が設けられていた。これまでの調査では、洛河以南で55坊、洛河以北で9坊が確認されている。それぞれの坊は基本的に正方形に作られ、1辺の長さが500m - 580mであった[4]。外郭内では南市・白居易故居・福先寺などの所在が確認されている[5]。
郭城全体の西北隅に位置する宮城と皇城は、たがいに南北に隣接していた。両城の西には御苑が広がり、東には東城、北には曜儀城ならびに円璧城が置かれていた。皇城の南は、洛河に面していた[6]。
宮城は長方形を呈し、周囲をめぐる版築城壁の壁面はレンガで保護されていた。城壁の長さは、北壁は1400m、西壁は1270m、南壁は1710m、東壁は1275m。基底部の幅は15m - 16mであった。これまでの調査で、北壁の玄武門、東壁の明徳門、西壁の長楽門、南壁正門の応天門の遺構が確認されている[7]。
応天門を貫く中軸線上では、武則天の明堂遺跡が発掘されている[8]。また応天門内の中軸線西側の建築跡から哀帝即位の玉冊が出土している[9]。
皇城は、宮城の東・西・南三面を取り囲んでいた。皇城東南部は、洛河によって押し流されていたが、ボーリング調査により、皇城の南北長は1670mであることが判明している[10]。また皇城内で隋代の子羅倉の遺跡が発掘されている[11]。
また皇城外の西南には上陽宮があり、唐の高宗が上元2年(675年)に建てた宮殿で、高宗や武則天がその晩年を過ごしている[12]。
宮城外の東北には、隋の大業年間に設けられた地下式穀物貯蔵庫の含嘉倉城があった[13]。その総貯蔵能力は400万石(24kL)におよび、47万人の年間穀物消費量に相当する[14]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 塩沢裕仁『千年帝都洛陽 その遺跡と人文・自然環境』雄山閣、2009年。ISBN 978-4-639-02124-7。
- 愛宕元『中国の城郭都市 殷周から明清まで』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2023年。ISBN 978-4-480-51208-6。
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。