霊彩
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霊彩の法諱の系字「霊」から、清拙正澄の法系である臨済宗大鑑派か、清拙から安名を受けた性海霊見の聖一派に属する画層だと推測される。画風が吉山明兆ら東福寺系に近いことから、後者の可能性が高い。ただ、性海霊見の師が他ならぬ清拙正澄であることから、大きく見れば清拙の法統に属していると言える。
永享7年(1435年)作品修復時の裏書から、駿河国雲居山浄居寺(現在の静岡県駿東郡小山町生土にある乗光寺[1])のために「涅槃図」を描いたことがわかる。この涅槃図は円覚寺所蔵の涅槃図に酷似することから、霊彩は関東出身で、この当時円覚寺で活躍していた可能性が考えられる。
その後、寛正4年(1463年)の『朝鮮世祖実録』閏7月庚申条には、九州探題・渋川教直名義の外交使節(実際は宗氏の偽使[2])として朝鮮に渡り、世祖に「白衣観音図」を献上したことが記録されている[3]。当時の朝鮮の王世祖は、儒学を重んじた李氏朝鮮の歴史のなかで、珍しく仏教信奉を謳い、ちょうど霊彩が渡海する前年に、世祖は道上元寺を訪れ「観音現相」の奇瑞に遭遇し、同年のうちに『観音現相記』なる奉教撰書が作られた。霊彩の白衣観音像献上は、こうした世祖の嗜好に明敏に反応したものといえる。なぜ霊彩が朝鮮行きを希望したかは不明だが、自身の宗教的情熱に突き動かされたとも推測される。これらの事跡以外は不明。
現存作品数は伝称作を含めても9点。作品に「脚踏実地」の印を押す。これと、明兆の用印「破草鞋」、霊彩の兄弟弟子と見られる「赤脚子」の三印は、どれも『碧巌録』が出典の足に関係する用語で、禅語の成句としてもしばしばまとまって使用される。画風は明兆が推めた線描の図案化を発展させ、画題の内容よりも暢達な線描の繰り返しや慎重に統御された墨調を生かし、造形的な面白さを指向している。
