青地林宗
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経歴
林宗は安永4年(1775年)伊予松山藩に生まれた。父は松山藩医青地快庵[3]。家業の漢方医学を修得したのち、20歳で江戸に出て幕府通詞馬場佐十郎に弟子入り、天文学や蘭語を学ぶ[3]。杉田立卿の私塾・天真楼、宇田川玄真の私塾・風雲堂にも学んだ。26歳の時、父快庵が亡くなると松山藩医の家を継ぐ為一時帰郷。5年間松山に落ち着いたが蘭学への想いから松山藩での職を辞し遊学の旅に出る。大坂、長崎など蘭学の地を回りながら再度江戸に戻る。47歳の時に幕府の招聘を受け天文台訳員となり、蘭書(西洋の学術書)の翻訳に従事した。ゴローニンの『日本幽囚記』も翻訳している。その後、水戸藩主徳川斉昭に請われ召し抱えられたが4年後、天保4年(1833年)2月22日死去[1]。享年59。
功績
オランダのヨハネス・ボイス(Johannes Buijs、1764-1838)が著した書籍を多く訳し、1827年に日本初の物理学書「気海観瀾」を刊行[3]。日本物理学の祖と称された。また蘭学の訳書が増えるにつれ日本にない言葉を訳す際、個々人で訳語、造語が出来ることに早くから懸念を抱き、訳語の適正化と統一を目的とした組織「同志會」を提唱し日本の翻訳事業に大きな道筋を指し示した。