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クーデンホーフ光子

日本の女性、ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻 (1874-1941) From Wikipedia, the free encyclopedia

クーデンホーフ=カレルギー光子(クーデンホーフ=カレルギーみつこ、Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月24日 - 1941年8月27日)、旧名:青山 みつ(あおやま みつ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻で、パン・ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母。美術評論家で戦後の日本の文壇のパトロンであった青山二郎の母親と光子は従姉妹でもあった。

全名 マリア・テクラ・ミツ・フォン・クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人
Maria Thekla Mitsu von Gräfin Coudenhove-Kalergi
身位 伯爵夫人
概要 クーデンホーフ=カレルギー光子Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 全名 ...
クーデンホーフ=カレルギー光子
Mitsuko Coudenhove-Kalergi
クーデンホーフ=カレルギー伯爵家
クーデンホーフみつ、1896年。1903年より夫の改姓によりクーデンホーフ=カレルギー姓に。みつは後に自らを光子(みつこ)と名乗る。

全名 マリア・テクラ・ミツ・フォン・クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人
Maria Thekla Mitsu von Gräfin Coudenhove-Kalergi
身位 伯爵夫人
出生 (1874-07-24) 1874年7月24日
日本の旗 日本、東京府牛込
死去 (1941-08-27) 1941年8月27日(67歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国、大ウィーンメードリング
埋葬 ヒーツィング墓地(ドイツ語版)(ウィーン)
配偶者 ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー
子女 ハンス、リヒャルト、ゲロルフ(ゲオルフ)、エリザベート、オルガ、イダ(イーダ)、カルル
父親 青山喜八
母親 青山津禰
宗教 仏教、のちキリスト教カトリック教会
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日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した人物である。

生涯

夫のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと青山光子

生い立ち

クーデンホーフ光子こと青山みつは、東京府東京市牛込区牛込納戸町26番地で菜種油や骨董品を手広く取り扱っていた複合商店『油屋』を営む肥前国佐賀藩出身の商人、青山喜八と妻・津禰(つね)の三女として生まれた。小学校を卒業後に上流階級の社交の場であった会員制高級料亭の紅葉館で女中として奉公をしていた。大日本帝国憲法施行後の1892年(明治25年)、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理公使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、青山家の目と鼻の先(牛込区牛込納戸町28番地)にあった公使館に小間使いとして奉公する。クーデンホーフ伯爵が騎馬で移動中に、大使館そばの急坂・中根坂で落馬したのを、みつが手当てしたのがなれ初めだといわれるが定かではない。

結婚

1892年(明治25年)3月16日、周囲が反対する中、みつ(光子)はハインリヒと結婚する。結婚式は築地居留地内のカトリック築地教会で挙行し、東京・横浜在住の外交官関係者が参列した。光子は日本女性で初めてウェディングドレスを纏って結婚した。同年12月16日に入籍。東京府(当時)に届け出された初の正式な国際結婚となった。夫妻は牛込区市谷加賀町2丁目10番の柴田承桂邸内にあるドイツ風洋館を新居とした。

同時期に光子はハインリヒが私淑していた日本在住のフランス人カトリック神父、フランソワ・A・リギョール[* 1]のもとで洗礼、告解、堅信式を行った[1]。洗礼名(クリスチャン・ネーム)はマリア・テクラ(Maria Thekla)。渡欧後の光子の正式名は「マリア・テクラ・ミツ・クーデンホーフ=カレルギー(Maria Thekla Mitsu oudenhove-Kalergi)」。

1893年(明治26年)9月に長男・ハンス光太郎、1894年(明治27年)11月に次男・リヒャルト栄次郎が相次いで誕生。当時の日本女性の国際結婚はまだ、外国人男性にあてがわれた現地妻という偏見が強かったため、光子は実家から表向き勘当されている。クーデンホーフ、青山両家やそれぞれの親戚、世間のあらゆる猛反対を説得した2人は、1895年(明治28年)3月26日に、2児を認知する上申書、続いて結婚届を牛込区役所に提出した。これを受けた東京府は内務省に、この申し出に問題がないか伺いを立てる「内外人結婚ノ儀伺案」を提出して内務大臣副島種臣の許可が下りた。同年10月に、ハインリヒは青山喜八の承諾証書を添えて本国へ送るため、2通の結婚証明書の発行を東京府に願い出ている。また、ハインリヒはこの結婚に際し、青山家に対して相応の金銭を支払ったらしく、後年光子が帰国しなかった理由のひとつがこのあたりにあったようである。

オーストリアへ

1896年(明治29年)1月、天皇に祝賀の拝謁をする宮中行事「新年朝賀ノ式」の「拝賀の儀」に宮内省から招かれ、ハインリヒとともに参内。光子は「駐日代理公使夫人」の身分で皇后美子に拝謁し、皇后からは「異国にいても日本人としての誇りを忘れぬよう」と激励され、象牙製の扇子を下賜された。同年秋、ハインリヒの帰任とともに彼の祖国であるオーストリア=ハンガリー帝国へ渡り、ボヘミア地方のロンスペルク(現在のチェコ西端ポベジョヴィツェ)に所在するクーデンホーフ家の居城、ロンスペルク城で暮らす。同年1月、

クーデンホーフ家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、一族は極東アジアからきた東洋人で仏教徒でもあった光子を奇異の目で見た。ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子の庇護に努めた。その後、三男ゲロルフ[* 2]ほか4人、合わせて7人の子をもうける。光子は夫を「パパ」と呼んでいた[1]。

ハインリヒは子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じた。光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまう。ハインリヒは日本への里帰りを計画するが、長期間幼い子供たちと離れることは難しかった。夫婦仲は良かったが、18ヶ国語を理解し、特に哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かな夫と、尋常小学校を卒業した程度の学力しかない妻とでは教養のレベルの差が大きく、子供たちのこと以外に夫婦でつながりを持てるものは少なかったが、光子も渡欧後に自分の無学を恥じて、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法などを家庭教師を付けて猛勉強した。

1903年、結婚して10年ほど経つ頃、夫ハインリヒはポーランド貴族出身の実母マリー・クーデンホーフの旧姓カレルギーを含めたクーデンホーフ=カレルギー姓を名乗り始めた[* 3]。クーデンホーフ家がクーデンホーフ=カレルギー姓になったのは、ハインリヒ以降である。光子もクーデンホーフ=カレルギー姓になった。光子の墓石には「Maria Thekla Mitsu Gräfin Coudenhove geb Aoyama」、と青山の姓が刻まれているが「カレルギー」は省かれている。gebは旧姓の意。

夫の急死

ミツコ・クデンホフ=カレルギ伯爵夫人とその7人の子供たち、西チェコ地方ポベジョヴィツェの城にて(1903年)

1905年の日露戦争の勝利により、日本の国際的地位が高まると、光子への偏見も和らぐが、翌1906年5月14日、ハインリヒが心臓発作を起こし急死した。ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていた。一族は財産を巡り訴訟を起こすが、光子は自ら法律書を読み法律の勉強をしてこれに勝訴する。以後、夫の遺産を相続し、伯爵家当主として簿記などを勉強し、家政を取り仕切った。そして子供たちの教育のため、財産を処分しロンスペルクからウィーンへ居を移す。

1914年に始まる第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国同士として戦うことになり、光子への差別は強まった。また、ハンスとゲロルフの2人の息子が兵士として従軍したり(リヒャルトは肺の病気で徴兵を免れた)、光子自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送る。

息子の結婚

次男・リヒャルトがウィーン大学在学中の1913年、13歳年上の著名な舞台女優 イダ・ローラン(英語版)(1881年-1951年)と知り合い、駆け落ち同然に同棲を始め光子と対立する。光子は女優というものを「河原乞食で魔女」と思っていたので、イダとの結婚に激怒し、リヒャルトを勘当した[2]。リヒャルトが財産分与の話を持ち出した際も、イダへのプレゼント目当てと分かり、感情的になる[3]。正式な結婚はリヒャルトが24歳になった1918年で、イダの連れ子エリカはクーデンホーフ=カレルギー家の養女となった。その後、リヒャルトはイダの経済的支援で『汎ヨーロッパ主義』を出版し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。 光子が結婚を反対した理由は、イダがユダヤ人で、二度の離婚歴があり、リヒャルトとは大きく年齢が離れ、常識的に考えても結婚を賛成し難い状況であったため。

西ボヘミアのホルショフスキー・ティーン城での展覧会

長男・ハンスは、裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身でオーストリア=ハンガリー帝国最初の女性パイロットリリー・シュタインシュナイダーと最初の結婚をし、のちに女優ウルスラ・グロースと再婚した。長女のエリザベートはオーストリアの独裁者エンゲルベルト・ドルフース首相の秘書を務めていたが[4]、ドルフースは1934年にナチス党を支持するオーストリア・ナチス(ドイツ語版)党員によって暗殺された。次女オルガは生涯独身で晩年の光子の介護を担った。三女のイダ・フリーデリケ・ゲレスは、のち作家として成功した。

没落

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を失った。光子は1925年に脳溢血により右半身不随となるなど不幸な生活を送った。その後はウィーン郊外のメートリングで、唯一の理解者である次女・オルガに介護されながら静養の日々を過ごす。初代ウィーン総領事・山路章の娘・綾子(重光葵の甥である重光晶の妻)によると暮らしぶりは質素だったという[5]。オルガは母の介護のため婚期を逃し、生涯独身だった。晩年の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や書籍を読むことだった。1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合され、次男・リヒャルトが主宰し政治活動の拠点としていた汎ヨーロッパ連合(汎ヨーロッパ運動)はドイツから弾圧されるが、光子は日本政府に守られた[6]。

死去

1941年8月27日、光子はオルガに見守られながらメートリングで息を引き取り、再び日本の土を踏むことはなかった。葬儀のはオルガとアパートの隣人が手分けして行い、オルガの兄弟が参列することはなかった。このことは1973年にNHKが放送したドキュメンタリー番組『国境のない伝記』、1987年に同じくNHKが放送した『ミツコ、二つの世紀末』で光子、オルガ母娘の隣人女性が証言している。光子は生前、ロンスペルクにあるハインリヒの墓に合葬されることを望んでいたが、ウィーンのヒーツィング墓地に埋葬された。

ロブマイヤーのMitsuko

ロブマイヤーのクリスタル製品は、1835年にハプスブルク家から王室御用達の称号が与えられた。当時の上流階級で愛用されていたロブマイヤーのグラス・セットを[7]光子も愛用[8]。光子はこのセットを使って自宅に招いた友人をもてなした[8]。そのグラス・セットを1866年にデザインしたルードヴィッヒ・ロブマイヤー(1829年–1917年)は[7]、同セットを「Mitsuko」と命名した[8]。ロブマイヤー本店のウェブサイトでは、このセットは「Trinkservice No.104」(Drinking set no.104)としか表示されていないが[9]、ロブマイヤー日本総代理店が特に「ミツコ」と表示している[7]。

ゲランのMitsouko

ゲランの香水「Mitsouko」は光子に由来するわけではない。だが「ジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ=カレルギー光子の名前を知らなかったということはないだろう」と同社社員は自社コラムで推察している[10]。ゲランの「Mitsouko」の由来は、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコである。ただ、このミツコが何に由来するのかは分かっていない[10]。

ゲランは画廊のギャルリー江夏とともに吉行和子の一人芝居『MITSUKO ミツコ – 世紀末の伯爵夫人』(2004年11月7日)を協賛した(後援: 駐日欧州委員会代表部、オーストリア大使館、チェコ大使館、日墺協会、鹿島平和研究所、日本友愛青年協会)[11]。ギャルリー江夏は光子の三男ゲオルフの子で日本在住の画家ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギーの絵画を所蔵する。

関連書籍

ミュージカル作品

ミツコの生涯を題材としてミュージカル『MITSUKO 〜愛は国境を越えて〜』が制作されている。

まず、日本・EU市民交流年にあたる2005年にウィーンにてコンサート版が上演された。その後、2010年12月に日本でもコンサート版が上演、2011年5-6月に大阪・愛知・東京の劇場で日本初演かつ世界初演のミュージカルとして上演された。

2011年の日本での初演以降、メディア化や再演は行われていない。現在は稀にBSプレミアムで放映されるほか、youtubeにて代表曲「後ろを振り向かずに」のみが公開されている。[12]

制作陣 

脚本・演出・オリジナル作詞:小池修一郎

作曲:フランク・ワイルドホーン

作詞: Jack Murphy

キャスト 

光子..…安蘭けい

ハインリッヒ…..マテ・カマラス

イダ…..AKANE LIV

成人リヒャルト…..増沢 望

アンサンブル:大木智貴、大谷美智浩、角川裕明、笠嶋俊秀、神敏将、高原紳輔、武内耕、中山昇、山崎義也、池谷京子、河合篤子、木村晶子、首藤萌美、園田弥生、本田育代、未来優希

あらすじ 

1938年。 ナチスの手を逃れて亡命する45歳のリヒャルトが、自らの母について語りはじめる……。1892年、当時17歳の青山光子は、オーストリア・ハンガリー代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と出会い、両親の反対を振り切って結婚し、海を渡る。「遠い異国でどんな辛い目に遭おうと日本人としての誇りを忘れないように」――皇后陛下の言葉を胸に努力を重ねた光子は、困難はありつつも幸せな日々を送る。

“人はみな同じ人類”――そう説くハインリッヒは息子らに大きな影響を与えたが、1906年、突如帰らぬ人に。 夫の代わりを務めるため、光子は強くならざるを得なかった。やがて彼女は社交界で“黒い瞳の伯爵夫人”と呼ばれもてはやされるが、次男リヒャルトと年上の女優イダの恋を認めず、ついに息子を勘当してしまう。

時代は第一次世界大戦へと突入。成長した子供たちは光子の元を離れていく。「自分の生き方は間違っていたのか?」――孤独の中、自問自答する光子。一方リヒャルトは、戦争で疲弊したヨーロッパをいかにして救うべきか、思案を続けていた……。

脚注

参考文献

光子を演じた人物

関連項目

外部リンク

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