静岡大空襲
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静岡大空襲(しずおかだいくうしゅう)は、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)末期の1945年(昭和20年)6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)の市街地が受けた空襲である。
マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団のB-29大型戦略爆撃機137機[1]は伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かうが、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静岡市街上空へと向かった。3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発[2]、被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数30.000余戸に上った[3]。

兵器等製造事業特別助成法(昭和17年(1942年)2月13日法律第8号)に基づき、航空機部品を製造する住友金属工業(現・三井住友金属鉱山伸銅)プロペラ製造所(高松地区=現・駿河区登呂[4])と、三菱重工業静岡発動機製作所(小鹿=現・駿河区)の二つの官設民営軍用機関連工場の建設が進められた。この工事を受注した鹿島建設が工事を進める最中に弥生時代のムラの跡である登呂遺跡が発見され、伊東忠太達により、短期間の緊急発掘調査が行われたものの、十分な調査を経ずに工事が再開され[5]、翌昭和18年(1943年)には生産が開始された。
昭和20年(1945年)3月に東京大空襲(10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)、神戸大空襲(17日)と日本の大都市を破壊したアメリカ軍は、その後、地方主要都市に目標を移した。アメリカ軍資料によると選定は昭和15年(1940年)国勢調査の人口に基づくものであり、静岡市は15番目であった[6]。同年4月7日の空襲により、住友金属及び三菱重工の両軍需工場は機能を停止していた[7]。
空襲時、西伊豆一帯や沼津市、富士市辺りからは駿河湾越しに静岡市街が真っ赤に燃えているのが解ったと云う。また、山を挟んだ榛原地域などからも静岡市街上空が真っ赤になっているのが見えたと云う。空襲の後も米軍機の飛行は続き、焦土と化した静岡市街地に向けて「早く降伏すれば贅沢ができる」の文字と、御馳走の写真が刷られたビラ(伝単)をばら撒いた。
B-29爆撃機は、富士山を目標に本土へ飛来してくるので、静岡県特に駿河湾沿岸域は、警戒警報や空襲警報がひっきりなしに鳴ったという。
また、空襲以外にも駿河湾に進入した米軍艦の艦載機グラマンが、数機編隊で次々と駿河湾沿岸地域へ飛来し、機銃掃射や波状攻撃を行った。工場や港は勿論、農作業中の人達なども狙われ、生産活動は停止。多くの市民が犠牲になったにもかかわらず、軍の命令で被害情報は全て秘密とされた。
戦後、住友金属工業プロペラ製造所の土地では、登呂遺跡の発掘が本格的に行われ、静岡市立登呂公園として整備された。
なお三菱重工業静岡発動機製作所の跡地は、三菱電機静岡製作所となり、パッケージエアコン、ルームエアコンの生産が行われている。
その他

