韋温 (宣歙観察使)

From Wikipedia, the free encyclopedia

韋 温(い おん、788年 - 845年)は、唐代官僚は弘育[1][2]本貫京兆府万年県

7歳のとき、『毛詩』を読んだ。11歳のとき、両経挙に応じて登第した。太常寺奉礼郎を初任とした。書判抜萃科に及第し、秘書省校書郎に任じられた。咸陽県尉として出向し、入朝して監察御史となった。著作郎に転じたが、父を看病するため、帰郷した。父の病床に近侍すること20年に及んだ。父が死去すると、喪に服して哀毀すること礼の規定を越えた。喪が明けると、長らくを経て右補闕となった。宋申錫が誣告されると、韋温はかれを弁護して争い、名を知られた[3][4]

大和5年(831年)、太廟の第4室と第6室に欠陥があったため、文宗は怒って、宗正寺卿の李鋭と将作監大匠の王堪を罰して、宦官の使者を送って補修させようとした。韋温は官の減給にとどめて、宦官に任せないよう上疏した。そこで文宗は宦官を派遣するのを取りやめた。群臣が文宗に尊号を奉ろうとすると、韋温は災害が頻発しており徽号を飾っている場合ではないと上疏したので、文宗はこれを取りやめた。韋温は侍御史に転じた[5][6]

李徳裕が宰相となると、韋温は礼部員外郎に任じられた。ある人が韋温は牛僧孺と関係が深いと李徳裕に告げ口したが、李徳裕は韋温を堅正中立の君子であるとして、排斥しなかった。鄭注鳳翔府に駐屯するにあたって、韋温はその副使として求められた。韋温は不測の禍を予期して、これを固辞した。大和9年(835年)、鄭注が殺害されると、韋温は考功員外郎に転じた。ほどなく知制誥となり、翰林学士とされた。翰林学士は父がつとめた職だったことから、固辞して受けなかった[7][6]

まもなく韋温は皇太子侍読を兼ねた。毎朝少陽院に出仕したが、昼になってようやく荘恪太子李永に面会することができた。韋温は李永に早起きして学問するよう求めたが、皇太子は幼く韋温の言うことを実行できなかった。韋温は太常寺少卿となり、ほどなく給事中に任じられた。霊武節度使の王晏平が不正に財産を蓄えた罪で左遷されるにあたって、韋温は詔書を三度封じた。皇太子が罪を得ると、韋温は皇太子は幼少で、訓戒で済ませるべきだと弁護した。韋温は尚書右丞に転じた。のちに陝虢都防禦観察使として出向した[8][9]

開成5年(840年)、武宗が即位し、李徳裕が宰相となると、韋温は長安に召還されて吏部侍郎に任じられた。汾州司馬に左遷された李漢について再調査するよう進言して、李徳裕に嫌われ、宣歙観察使として出された。鄭処誨を召し出して宣歙観察判官としたため、ますます李徳裕に喜ばれなかった。池州の人が刺史を訴え、韋温がこれを調査すると、訴えの事実がなかったため、原告を杖殺した[10][9]

会昌5年(845年)5月14日、韋温は死去した。享年は58。工部尚書の位を追贈された。は孝といった[11][9]

家族

  • 九世祖:韋敻
  • 祖父:韋肇(吏部侍郎)
  • 父:韋綬(翰林学士、散騎常侍)
  • 叔父:韋貫之[1]
  • 女:韋氏(薛蒙の妻、班昭『女訓』を続成した)[11][12]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI