顧徽
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若い頃から游学し、弁才があった。孫策が亡くなり、孫権がその勢力を統べることになると、その才能と弁舌を見込まれて招聘され、主簿に任じられた。
ある時、営軍が一人の男を処刑しようとしているのを目にして、話を聞くとその罪は百銭の金を盗んだということだった。顧徽はその処刑を押し留めると、孫権の下に駆けつけて述べた。「いま我らは兵士をよく養い、北方の賊どもの討伐を目指しているところです。この兵士は体格も立派ですし、盗んだ銭も僅かなもの。どうか彼に哀れみを賜らんことを」。孫権はこの陳情を良きこととし、許可した。
北方の曹操が、孫権の勢力範囲である東方の地を欲しているとの情報が入ると、孫権は顧徽に「貴方は私の腹心だが、いま孟徳(曹操の字)が我々に対し異心を抱いていると伝える者があり、しかしこれを探らせるに足る者がいない。貴方が私のために出向いてもらえないか」と述べ、顧徽を輔義都尉に任じ、曹操の下へ向かわせた。曹操から孫権支配地域の情勢について尋ねられた顧徽は、それに穏当に対応しつつ、江東の地は豊かで、山野に潜んでいた賊徒らもその教化を慕って善となり、配下の兵となっていることを述べた。曹操は顧徽を厚遇した後、孫権の下へ帰した。帰国後はまた孫権に、「敵国とは実情を隠すもので、探察するのは困難です。ただ私が密かに得た情報では、曹操は袁譚と争っているところで、他に意を向ける余裕はないようです」と報告した。