顧邵
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少年の頃から博識で知られており、母の弟の陸績と並び称され、陸遜・張敦・卜静は顧邵に及ばないと言われた。顧邵と親交を結ぶために四方から人が訪れ、名声は遠方まで届いた。孫権はその名声を聞き、孫策の娘を顧邵に嫁がせた。
建安15年(210年)、龐統は周瑜の棺を届け喪を弔うために呉へ赴いた。顧邵は陸績・全琮らと共に龐統と親交を結び、龐統から 「駑牛能負重致遠(足が遅いが力のある牛)」と評された。
同年、27歳で出仕し、孫鄰の後任として豫章太守となった[2]。陋習を廃止し、優秀な人材は身分を問わず抜擢するなど、優れた治績を挙げた。
優れた人物眼を持ち、丁諝・張秉・吾粲・殷礼を見出して孫権に推挙した。
建安19年(214年)、太守在任中に31歳で死んだという[2]。
逸話
南朝斉の殷芸が集めた『小説』には顧邵の話が収録されている[4]。
顧邵は豫章太守となった後 、学校を建てて重んじ、寺を淫祠であるとして取り壊した。廬山の廟を取り壊す際には、周りの人は顧邵を諫めたが、顧邵は聞き入れなかった。夜、突然訪問客が来る声がして怪しく思っていると、住職のような格好をした人物が現れ、自分は廬山君であると名乗った。顧邵は席を勧め、鬼のような雰囲気を持った客は入ってきて座った。顧邵は春秋左氏伝を愛読していたので、二人は一晩中それについて話し合った。顧邵が「晋の景公の夢(病膏肓に入るの故事)に出て来た大厲は昔も今も同じように存在しているだろうか?」と問うと、廬君は笑いながら「大は今も在るけれども、厲はそうではない」と答えた。そのうち灯が尽きてしまったが、顧邵は改めて着けず左伝を燃やして灯代わりとして論議を続けた。客は頻りに暇を乞うたが、顧邵は引き止めた。客は本当は顧邵に危害を加えようと訪ねたが、彼が静かな態度で隙がなかったので和解を求めに来たと言い、廟を元の通りに復元してほしいと熱心に頼んだ。顧邵は笑って取り合わなかった。客は怒って席を立ち、「今日は君に復讐することが叶わなかった。三年の内に君は病気になるだろう。その時に乗じて復讐を遂げよう」と言った。顧邵は左氏伝論を続けようとしたが、客は姿が見えなくなってしまった。3年後、果たして顧邵は病を得、夢でこの廬君が自分を撃ち、再び彼に寺の修復を勧めるのを見た。顧邵は断って「邪道は正道には勝てない」と答えた。まもなく死去した[5]。