香福寺
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| 香福寺 | |
|---|---|
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本堂 | |
| 所在地 | 相模原市緑区橋本5丁目39-17[1] |
| 位置 | 北緯35度36分3秒 東経139度20分28秒 / 北緯35.60083度 東経139.34111度座標: 北緯35度36分3秒 東経139度20分28秒 / 北緯35.60083度 東経139.34111度 |
| 山号 | 橋本山[2] |
| 宗派 | 臨済宗建長寺派[2] |
| 本尊 | 地蔵菩薩像[2] |
| 創建年 | 應永年間 |
| 開山 | 蔵海性珍[2] |
| 中興 | 矢嶋左近某[2] |
| 正式名 | 橋本山香福寺 |
| 文化財 |
コウヤマキ(市保存樹木) 徳本念仏塔(市文化財) |
| 公式サイト | 臨済宗 香福寺 |
| 法人番号 | 9021005002698 |
応永年間(1394年~1427年)に創立された[4]。開山は蔵海性珍[4]。本尊は地蔵菩薩であり、かつて薬師堂にあった薬師如来像が安置されている[5]。開基不詳[4]。山門は19世紀に建てられたという[6]。
香福寺は開山後ほどなくして衰退したと思われる[6]。開山と第二代住職との間に59年、二代と三代の間に66年、三代と四代の間に47年の開きがあり、開山してすぐに無住の状態に陥ったことがわかる[6]。1594年(文禄2年)の検地では地蔵堂だったといい、当時は御本尊が祭られているのみだったと考えられる[6]。
その後の中興開基は矢島左今尉(1640年11月15日没)が行ったといわれる[4][7]。矢島氏は甲州・武田家の遺臣であり、武田の滅亡後、橋本に落ち着いた[8]。
近年では新墓地も造成されている[7]。
境内

本堂
矢島左近某(1640年没)を中興開基とする、在地の標準的な臨済宗本堂である[9]。間取りは左右対称。内部は差物を用いず、仏間周囲を除いて上部の壁はすべて内法長押で固めてある。仏間前面は欅の丸柱間に三本虹梁形差物をわたしている。仏間は竿縁天井、来迎柱間に木鼻付きの虹梁形頭貫と台輪をわたし、前方にも木鼻を出している。建築年代を示す資料はないが、虹梁の絵様から18世紀後期と推定される[10]。
鐘楼
平面は桁行2.7m、梁行2.4mの長方形。細部は禅宗様を基本とし、内部は格天井を張り、出組で直接天井桁を受ける[11]。以前の釣鐘は貞享3年(1686年)鋳造のものであったが[12]、第二次世界大戦中に供出させられている。現在の釣鐘は、近年信徒によって奉献されたものである[13]。
山門

一間一戸の四脚門で、すべての柱が丸柱である[14]。 鐘楼とは、異なり素木造で、江戸時代後期に造られた[14]。
三つ鱗の紋

本堂・山門・鐘楼・客殿の棟や鬼瓦、硝子戸などに三個の三角形を品字型に並べた、「三つ鱗」の紋がついている。この紋は鎌倉幕府の実権を握った、鎌倉北条氏の紋と同じである[15]。円弧が重なった文様ではなく、三角形の文様を鱗とするのは、この文様の鱗は魚の鱗ではなく、龍や蛇の鱗であるという説がある[16]。
その他
かつては延寿堂(僧の病を療養する施設)や薬師堂もあった。
延寿堂は、すでに天保の頃(1831年~1845年)には遺跡になっていたといわれる[17]。一般的に延寿堂は大寺にあったとされているためかつての香福寺も大寺であったと考えられる。また古書には常慶庵という別院があったとも記されている[18]。
薬師堂については、『新編相模国風土記稿』にこれが書かれた1841年には香福寺境内にあったと記されているが、どこにあったかは定かではない[19]。『相澤日記』には、1900年12月薬師堂を八王子の上州屋に30円で売却し、その金は香福寺の屋根の修理費に充てられたと書かれている[20][21]。
