駿河牧氏
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盛衰
大舎人允宗親の娘・牧の方は源頼朝の外戚となって権勢を持った伊豆国の武士・北条時政の後妻となり、男子北条政範のほか複数の女子を儲けた。牧氏は平頼盛に仕えていた経歴から京都との繋がりが深かったようで、牧の方所生の娘には公家に嫁いだ者もいる[5][3]。『吾妻鏡』における牧氏は時政の側近として活動する記事が多く見られ、寿永元年(1182年)時政の娘である北条政子[注 1]の指示で、牧の方の兄弟にあたる牧三郎宗親が頼朝の愛妾・亀の前の住む邸宅を破壊させる事件を起こしている。この事件は牧の方政子への密告が発端となっており、宗親はこの件で頼朝の怒りを買い恥辱を与えられたため、時政はその抗議のために鎌倉を出て故郷に引き上げるという態度を示している[5][6][7][8]。三郎宗親は後に武者所宗親と改めて引き続き時政側近として『吾妻鏡』に見え、建久6年(1195年)の記事を終見とする[9]。
その後、建仁3年(1203年)には時政の側近として大岡判官時親の名が見られる。時親は『愚管抄』に牧の方の兄とされている人物であり[3]、元久2年(1205年)に備前守に任官している[1]。また建久3年(1192年)京都守護に任じられた牧四郎国親も一族とみられる[2]。元久2年(1204年)牧の方は娘婿平賀朝雅の訴えを容れて北条時政に讒言して畠山重忠の乱を惹起し、さらに朝雅の将軍擁立まで謀ったが、北条政子・義時に防がれた(牧氏事件)[10][11][5][12]。時政は伊豆北条に隠退し建保3年(1215年)に同地で死去[11][10]。時政の与党だった大岡時親も時政失脚と同時に出家し、以後牧氏の具体的動向は不明となる。ただし嘉禄3年(1227年)に尼となっていた牧の方が在京していることがわかっている[13]。
通常同名の大舎人允宗親と武者所宗親を同一人物視するが[6]、その官歴から『吾妻鏡』にみえる武者所宗親と備前守時親を同一人物とする説もある[14]。なお「北条系図」は北条時政の娘の中に大岡時親の室がいるとしている[15]。