高元裕
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貞元12年(796年)、進士に及第し、節度使の補佐役を歴任した。右補闕として長安に召し出される途中、商州で方士の趙帰真が勝手に駅馬を乗り回していたため、允中は側近に命じて馬を取り上げさせた。ときに敬宗は定期的に朝廷に出ることなく、宦官が専横して大臣が敬宗に面会できなかったことから、允中は敬宗を諫めた。大和元年(827年)、侍御史となり、元裕と改名した。左司郎中に累進した。李宗閔が宰相となると、元裕は諫議大夫に任用され、ほどなく中書舎人に転じた。大和9年(835年)、李宗閔が罪を得て左遷されるにあたって、元裕は城を出て餞別し、李訓の怒りを買って、閬州刺史として出された。甘露の変で李訓と鄭注が殺害されると、元裕は召還されて再び諫議大夫となった[1][2]。
開成3年(838年)、元裕は侍講学士となった。文宗が荘恪太子李永のために師友としようと、元裕に太子賓客を兼ねさせた。開成4年(839年)、元裕は御史中丞に任じられた。御史台の官で実職にない者を地方に出向させるよう上奏し、聞き入れられた。ほどなく藍田県の賀蘭進が里中の50人あまりと念仏のため集合していたところ、神策鎮将がかれらをみな捕らえ、反乱を計画していたとして死罪にしようとした。元裕はその冤罪を疑い、賀蘭進らをもう一度尋問するよう上疏して、聞き入れられた[1][3]。
開成5年(840年)、元裕は京兆尹となった。尚書左丞・知吏部選補に抜擢された。会昌5年(845年)、宣州刺史・宣歙観察使として出向した。大中元年(847年)、刑部尚書に任じられた。大中2年(848年)、検校吏部尚書・襄州刺史・山南東道節度使として出向した。銀青光禄大夫の位を加えられ、渤海郡公に封じられた。入朝して吏部尚書となった[4][5]。大中4年(850年)6月、死去した[6]。享年は76。尚書右僕射の位を追贈された[5]。