高坂王
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壬申の乱の勃発時、高坂王は倭京で留守司を務めていた。倭京とは、当時の都である近江大津京に対する飛鳥の古都を指し、留守司とはこの倭京を預かる役人である。倭は「やまと」と読み、大和国のことである。
大海人皇子は6月22日に村国男依らを美濃国に派遣して挙兵を指示した。壬申の乱の開始である。だが、『日本書紀』によると、大海人皇子は24日に不安にかられて男依らを呼び戻そうと考え、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人の使者を高坂王に遣わして、急使を立てるための駅鈴の引き渡しを請わせた。高坂王は駅鈴を渡さなかったが、使者を捕らえることもしなかった。逢志摩の復奏を受けた大海人皇子は、直ちに東に向かって出発した。
大友皇子は穂積百足、穂積五百枝、物部日向を倭京に遣わし、高坂王に軍の編成を命じた。高坂王と百足は飛鳥寺の西の槻のもとに陣営を設けた。しかしこのとき、倭には大伴吹負がいて、大海人皇子に味方する同志を集めていた。6月29日、吹負は別の留守司である坂上熊毛と謀り、吹負が高市皇子を名乗って外から陣営に入り、それに熊毛と倭漢氏の一部が内応するという計をたてた。敵軍の指揮権を乗っ取ろうというこの策略は成功し、穂積百足は殺された。穂積五百枝と物部日向は一時拘禁されたがすぐに大海人皇子側の軍に加わった。高坂王と稚狭王も大海人皇子方で戦うことになった。
壬申の乱では大海人皇子が勝利したが、乱の後の高坂王の処遇については記録がない。この乱では敗者についた多くの者が赦されたので、従軍した高坂王が罰されることはなかったであろう。天武天皇12年(683年)6月6日に三位で亡くなった。