高市皇子
日本の飛鳥時代の皇族。浄広壱太政大臣。
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生涯
出生
大海人皇子(後の天武天皇)の皇子(長男)として誕生。母は尼子娘。名の由来は諸説あるが、大和国高市郡にて育ったといういわれから。大和国外山に鎮座する宗像神社 (桜井市)は高市皇子が母方の氏神を祀り創建したと伝わる。
壬申の乱
672年、壬申の乱の勃発時、吉野宮にいた父とは別居して、高市皇子は近江大津京にあった。天武天皇元年6月24日に行動を起こした大海人皇子は、大分恵尺を使者として、高市皇子と大津皇子に事を告げ、伊勢で会うよう命じた[1]。
2人の皇子は別行動をとり、高市皇子は鹿深を越えて6月25日に積殖山口で父に追いついた。鹿深(かふか)は甲賀、積殖は伊賀の阿拝郡の柘植である。このとき従っていた者は、民大火、赤染徳足、大蔵広隅、坂上国麻呂、古市黒麻呂、竹田大徳、胆香瓦安倍)であった。高市皇子はそのまま大海人皇子の一行に加わった。大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、無事に合流した。
6月26日、伊勢の朝明郡の郡家の手前で、一行は村国男依に出会った。男依は、美濃の軍3000人で不破道を塞ぐことができたと報告した。大海人皇子は郡家に着いてから高市皇子を不破にやって軍事を監督させ、東海と東山に動員を命じる使者を送った。
6月27日、高市皇子は不破から桑名郡家にいた父に使者を送り、「御所から遠くにあって、政治を行うのに不便です。近い所にいてください」と要請した。そこで大海人皇子は野上に移った。この日、不破においた伏兵が、西から来た敵の使者、書薬と忍坂大麻呂を捕らえた。高市皇子は和蹔から野上まで父を出迎え、敵の使者のことを報告した。
『釈日本紀』が引用する調淡海と安斗智徳の日記によれば、このとき大海人皇子は、唐の人たちに「汝の国は戦が多い国だ。きっと良い戦術を知っているのではないか」と問うた。一人が進んで言うには、「唐国では先ず遣者と観者をやって地形の険平と消息を見させます。軍を出して夜襲したり昼撃したりしますが、深い術は知りません」。そして書紀の次の場面に移る。
大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。
高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。
28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。
7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の2つの軍を送り出した。一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたか[2]、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたのであろう[3]
7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。
天武天皇の時代
乱の終結した直後、天武天皇2年(673年)2月に即位した天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼かったが、『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。
天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。
この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で第三の地位とされるようになった。皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。またこの頃より、天武天皇の皇子たちは病気見舞いや弔問にしばしば遣わされた。高市皇子は、天武天皇9年(680年)5月20日、飛鳥寺の弘聡という僧が死んだとき、大津皇子とともに弔問に遣わされた。同年7月25日、舎人王の病気が重くなったので、高市皇子が遣わされて見舞いした。翌日舎人王が死ぬと、高市皇子と川島皇子が弔問に遣わされた。翌9年(681年)11月17日に、恵妙という僧が死んだため、3皇子が遣わされて弔った。高市皇子もその一人だったと思われる。11年(684年)7月9日には、膳摩漏の病気見舞いに草壁皇子と高市皇子が遣わされた。
天武天皇14年(685年)1月21日、冠位四十八階の制が定められたとき、高市皇子は浄広弐の位を与えられた。天武天皇の皇子の中で草壁皇子、大津皇子に次ぎ3番目であった。
朱鳥元年(686年)1月2日、天武天皇は大極殿で宴をした。このとき天皇は無端事(なぞなぞ)を問うので正しく答えれば褒美を与えると言った。高市皇子は正しく答え、蓁措(榛染め)の衣を3、錦の袴を2、絁(あしぎぬ)20匹、糸50斤、綿100斤、布100端を得た。
天武天皇8年(679年)8月2日に親王以下に封戸が授けられており、このときに封戸(600戸か)を認められていたはずである。書紀には朱鳥元年(686年)8月13日に、高市皇子は草壁皇子、大津皇子とともに400戸の封戸を加えられたことが見える。
太政大臣
天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨御した。そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨御まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。
持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。
持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封を2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。
持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。
持統天皇10年(696年)7月10日薨御。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。一方で、キトラ古墳か高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。
挽歌
高市皇子に関する歌
『万葉集』
・巻2-156~158 十市皇女に寄せた挽歌
「三諸の神の 神杉夢の みに見えつつ 共に寝ねぬ 夜ぞ多き」
(三輪山の杉の神木のようにあなたは夢の中にばかり現れて、現実には一緒に寝ることができない。そんな夜の多いことよ。)
「神山の 山辺真麻木綿(やまへまそゆふ) 短木綿(みじかゆふ) かくのみ故(から)に 長くと思ひき」
(三輪山の山辺にかかる麻の木綿のように短かったあなたとの逢瀬ゆえに、もっと長く一緒にいたいと思うものです。)
「山吹の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく」
(山吹の花が美しく咲き誇っているその山の清らかな水を酌んで、黄泉の国にいるあなたに会いに行こうと思うが、道が分からないのだ。)
・巻2-199~202番 柿本人麻呂による高市皇子に寄せた挽歌
「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まがみ)が原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐(いは)隠ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あまも)りいまして 天(あめ)の下 治め給ひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)し給へば 大御身(おほおみ)に 大刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉(ととの)ふる 鼓の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡(はた)の靡きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに着きて ある火の 風の共(むた) 靡くがごとく 取りて持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわき) み雪降る 冬の林に 旋風(つむじかぜ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来たれ 服従はず 立ち向かひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の あらそふ間(はし)に 渡会(わたらひ)の 斎の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 申し給へば 万代(よろづよ)に 然しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に わご大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い葡(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い葡(は)ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わご大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如(ごと) ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲はむ 恐くありとも」
(口に出して言うのも憚られるほど畏れ多く、言葉にするのもひどく畏れ多いことですが……明日香の真神原に天の神の御殿を恐れ多くもお定めになり、神のようにお隠れになっている我が大君⦅天武天皇⦆が治めておられる地方の国へ……真木の立つ不破山を越え、高く険しい吾妻の地へと進み、和蹔の原の行宮に天降りなさって天下を治め、国を定めようとして、東国の兵をお呼びになり、荒ぶる人々を従わせ、服従しない国を平定せよと皇子にお命じになった。その皇子は尊い御身に大刀を帯び、御手に弓を持ち、軍勢を率いて整えた。その太鼓の音は雷のように響き、角笛の音も敵を見た虎の咆哮のようで、人々が震え慄くほどである。掲げられた旗は、春になって野に灯る火が風に靡くように揺れ、弓の弭の鳴る音は、雪の降る冬の林を吹き荒れる旋風のように響き渡り、放たれた矢は激しく大雪が乱れ降るように飛び交った。敵は抵抗するも、露や霜のように消えてしまうほど儚く、争いのうちに滅びていった。その時、伊勢の神宮から神風が吹き起こり、天雲を覆って日の光も見えないほどの闇となり、神の力によって国が定められ、瑞穂の国は治められた。こうして我が大君が天下をお治めになるので、この国は永遠に続くことだろう。そう思われていたのに……栄えゆくその時に我が大君は皇子の宮を神宮として整え、仕えていた人々も白い麻の衣を着て、日ごとに地に伏し、夕方には宮殿を仰ぎ見て這うようにして仕えるも、最早お仕えすることもできず、春の鳥のように彷徨い、嘆きもまだ尽きず、悲しみも尽きないうちに……百済の原から神として葬られ、城上の宮を永久の宮として高くお祀りし、神として鎮まってしまわれた。それでも我が大君が永遠を願ってお造りになった香具山の宮がそのまま滅びてしまうことなどあるだろうか。畏れ多いことではあるが、天のように仰ぎ見ながら、私は心にかけて偲び続けよう。)
系譜
系図
| 34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||