高増径草

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生誕 高増 啓蔵[2]
(1901-01-11) 1901年1月11日[3]
東京府木挽町[3]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京聾唖学校師範科図画科[2][4]
高増 径草
(たかます けいそう)
中国新聞1953年7月31日夕刊より、ろう学校の教壇に立つ高増径草[1]
生誕 高増 啓蔵[2]
(1901-01-11) 1901年1月11日[3]
東京府木挽町[3]
死没 東京都[4]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京聾唖学校師範科図画科[2][4]
著名な実績 日本画[5]
子供 高増 暁子(画家)[6]
受賞 紺綬褒章[4]
選出 新美術協会、大調和会[7]
→ 無所属[7]
影響を受けた
芸術家
水上泰生[3]
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高増 径草(たかます けいそう、1901年明治34年〉[3]1月11日[8] - 1985年昭和60年〉9月18日[9])は、日本画家。1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下からまだ日が浅い内に、広島市内で原爆投下後の光景を絵に描いた人物として知られる[10]。「径草」は雅号で[7]、本名は高増啓蔵[2]。「径草」以前には他に「其暁」の雅号も用いた[7]

戦前

東京府木挽町(後の東銀座[3])で誕生した[3]。3歳のとき、中耳炎によって失聴した[11][12][* 1]ろう者となったものの、努力の末に、家族や近所での生活ていどなら、口話による会話が可能となった[11][13]

幼少期より画家を志していたことで、風景画や古画の模写に励み、日本画家水上泰生に師事した[3]。1923年(大正12年)3月に、日本美術院で入選した[3][14]。同1923年9月の関東大震災では、墨田区の実家で被災したが、負傷は免れた[15]

1921年東京聾唖学校(後の筑波大学附属聴覚特別支援学校)普通科高等科を卒業し[16]1924年に同校師範科図画科[17]を優秀な成績で卒業[2][4]した後、1924年(大正13年)12月、広島の国泰寺町に落成したばかりの広島県立盲唖学校(後に広島県立ろう学校[3]、さらに後に広島県立広島南特別支援学校[18])の美術の講師に任命されて、広島市に移住した[3]。広島では、緑あふれる風物に魅力を感じて、山や村の風景を主な対象として、創作活動を続けた[3]

戦中 - 終戦直後

太平洋戦争の戦況が激化した1945年(昭和20年)5月[3]、ろう学校が疎開を命じられたため[19]、高増は生徒たち約90人と共に、広島の高田郡吉田町(後の安芸高田市)に疎開した[3][11]。前年に妻を喪ったため、高増の家族も共に疎開していた[3][12]

同1945年8月6日、広島市に原爆が投下された。高増たちの疎開先である吉田町は、広島の県北に位置し、爆心地から40キロメートルも離れていたが、その吉田町からもでも、立ち上るキノコ雲が見えた[11][12]。高増はすぐさま、画家としてそのキノコ雲をスケッチした[3][11]。キノコ雲のその大きさは、高増にとっては「広島ではなく、吉田町の近隣が爆撃されたのかと思った」と感じられた[20]

高増は広島の自宅を確認するために、8月14日に家族で広島市内を訪れ[6][11]入市被爆した[21]。街がなくなり、悲惨な状況に足がすくむほどだったが、画家として「この惨状を絵筆で書き留めなければならない」と考えた[11]

同1945年9月に、広島市内のスケッチのため、通訳として長男を連れて[19]、再び広島市内に入った[11]。9月になっても、あちこちに被爆者の遺体が残っていたが、高増は遺体を描くことができず、広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)、元安橋、後の広島平和記念公園にあたる通りなど[20]、建物や周囲の状況を描き残した[11]。これは最初期に描かれた原爆画とされている[19][22](別説あり、後述)。

スケッチのための入市が原爆投下すぐではなく、翌9月に遅れたことや、長男を同行させたことには、関東大震災直後に「朝鮮人暴動」とのデマが流れて、高増の友人であるろう者が、言葉が不自由なためにスパイ扱いされて殺害されたとの事情があった[11][12]。9月9日[22]、広島でのスケッチ中にアメリカ兵に写真を撮影され、大変な恐怖を感じて[11]「覚悟した」というが、幸いにも手荒なことはされず、身振り手振りで相手をし、写真を撮影されるのみで事なきを得た[12][22]

終戦翌年の1946年(昭和21年)に、吉田町の街並みや山々を描きあげた後、広島へ引き揚げた[7][22]

戦後 - 晩年

1956年(昭和31年)に、教員を辞職した[7]。以降は新美術協会、大調和会といった美術団体の会員に専念して、山形県を始めとする各地を旅行し、各地の作品を多数、描き残した[7]

1969年(昭和44年)からは頻繁にフランスにわたり、フランスの美術展にも出展した[7]。1970年(昭和45年)から1974年(昭和49年)にかけては、広島県福山市天満屋で個展を開催した他、次女で日本画家の高増暁子との父子展も開催した[7]

後に、広島平和記念資料館、吉田町、民俗資料館などに数多くのスケッチを寄付したことにより、総理府より紺綬褒章を受章した[4]

原爆の記憶も薄れた頃の1979年(昭和54年)、米国戦略爆撃調査団による原爆投下直後の記録写真に[23]、広島市内でスケッチ中の高増の姿が写っていたことが明らかとなった[24][25]。このことで雑誌「アサヒグラフ」では、高増が原爆投下後に描いた原爆ドームや元安橋など、広島市内各地を高増本人が回って歩く企画が掲載された[24]。高増はこの写真発見について「自分なりに原爆を記録しておこうと思って実行したことが、今になって世間に認められたような気がする[* 2]」と、感想を語った[12]

1981年(昭和56年)に東京都に移住後[4]、1985年(昭和60年)9月18日に、咽頭癌のために84歳で死去した[9][5]

没後

2003年(平成15年)11月、戦中の疎開先であった広島県吉田町の町歴史民俗資料館で、高増のスケッチ画展「キノコ雲が見えた」が開催されて[26][27]、原爆投下時に描いたキノコ雲のスケッチ、それをもとにした水彩画、戦中戦後に描いた吉田町の姿など、50点が公開された[26][28]。高増の作品が吉田町内で一堂に展示されるのは初めてであり、「初の里帰り展」と報じられた[28]

2008年(平成20年)には、先述の次女の高増暁子に加えて、高増の長女の田丸歌子(広島県立ろう学校教員)、長男の高増文雄(太田記念美術館事務長)から、高増の原画18点が、広島平和記念資料館に寄贈された[15]。暁子が広島市内で個展を開催したことが寄贈の契機であり[15]、暁子は父の高増について「描き残さなくてはいけないと思ったのだろう。描くことが生活そのものの人だったから[* 3]」と語った[6]。高増が当時に描いたものは、終戦直後は画用紙などがなく、学校で使用していた用紙の裏でスケッチをしたのために、劣化が激しく、後に長男の高増文雄が表装をして保存をしたものである[11]。長女の田丸歌子は、父である高増の勧めでろう学校の教員となり[21]、その後も高増の原画のカラーコピーを携えて、日本国内外での証言活動に取り組んでいる[13][29]

評価

脚注

参考文献

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